『否認』という肉

 「アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。
 一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。
 大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」
 それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」(ヨハネ18:24-27)

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 さくじつの記事で、「ペテロのイエス思いのほどは、自他共に認めるところだろう。そのイエスを護るためならば、剣という力の行使もためらわない」と記した。

 上の聖書箇所でも、ペテロは捕らえられたイエスが心配で、大祭司邸へと潜入する。
 ところが、そこに集まっている人々はみな知った者同士だ。大祭司の深夜の邸宅なのだから、当たり前といえば当たり前だろう。
 ペテロはそんなことはお構いなしだが、周囲の人間は「誰だ、こいつ?」とペテロを見ている。
 そして、ペテロに声が掛かる。
 「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」
 「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」
 イエス思いのペテロは、「そんな者ではない」と続けて否認し、そして予めイエスが言っておられたとおり鶏が鳴く。(ヨハネ13:38)

 ペテロは周囲に追いつめられて、師であり神と思っている人を何度も知らないと否認した。
 私がペテロの立場だったら、もちろん私も否認する。問われる度に、否認する。
 「私だったら『知らない』などとは言わない!」と思う人も、少なからずいるだろう。
 だが、その思いとは裏腹に、やはりペテロ同様、否認するだろう。

 言動不一致を書きたいのではない。
 問い詰められて否認するというのは、人間の罪深き肉の性質そのものなのだと書き留めておきたい。
 イエスは、アダム以来人間の肉が持つその罪性が赦されるよう、まずは御自身が十字架に架かろうとなさっている。
 御自身の肉を、十字架に張りつけてしまうのだ。
 そののち、この肉を脱ぎ捨ててイエスは復活する。

 その復活のイエスに出会うとき、肉が罪赦されたことが分かる。
 それが信じるということだ。
 この罪が人間から消えてなくなるということは、この世ではありえない。
 だが、罪があっても神から赦されている。

 問い詰められて否認してしまう肉の性質は、2000年も前から赦されているのである。

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