律法と十字架

 「そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」
 ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」
 祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。
 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
 彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。」(ヨハネ19:13-18)

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 イエスの裁判が始まった。「さあ、あなたがたの王です。」
 鳴り響く彼らの声。
 「除け。除け。十字架につけろ。」
 「除け」とは、この世からいなくなってしまえというニュアンスだろうか。
 似たような言葉として、消えろとか消え去れとか、失せろとかウザいとか。
 現代でもありふれた言葉たちだ。
 一方で、同様に現代にあふれる「死ね(氏ね、等)」という意のことを、彼らはけっして言わない。
 なぜなら、それは「殺してはならない」という律法に反するからである。
 それで代わりに、ローマの手により死罪にしてもらおう、それも最高刑で、というのが、「十字架につけろ」という叫びになる。
 そして念願叶いイエスの身を受け取って、彼らはイエスを引きづりゴルゴダまで行く。
 そこで彼らは、イエスを十字架につけた。
 十字架につけるとどうなるということは、もちろん彼らは承知している。

 律法を意識して「殺せ」とか「死ね」とはけっして言わない彼らが、直接イエスを十字架にをつける。
 「殺してはならない」という律法など、積もり積もった憎しみの前には何の意味をなさない。
 それほどまでに人間の罪深い肉(ここでは憎しみ)は、神の完璧な秩序である律法に対してあまりにも無力だ。
 律法を守ろうという意識が明確な彼らは、しかし明らかに律法をないがしろにしている。

 イエスは、憎しみの中に身を置き、自らが架かる十字架を背負い、そしてその十字架に架かる。
 人間が起こした神への反乱に、ただ身を委ねている。
 アダムの肉の罪深さは、常に神に反抗し続けるのだ。
 そのアダムの肉の救済のため、神がアダムに殺される。
 彼らは、「殺してはならない」という律法の最悪の違反者たちだ。
 その最悪の律法違反を通して、罪深い肉がそのままに赦される神の救済が進められつつある。

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[付記]
 中途半端さを否めません。難しいテーマです。

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