罪と罪

 「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
  『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」(マタイ12:1-7)

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 弟子が穂を摘んだことを労働だと言いつのるパリサイ人に対するイエス。

 「あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかった」。
 この文中に2回出てくる「罪」という文字、これらは共に guilty としての罪である。
 言い換えると、律法に照らした違反。
 「律法」の部分は、ローマ法でも現代の法律でも、なんでもよい。
(ちなみに、イエスは、弟子たちのしたことは律法違反ではないとかばっている。)

 だが、「罪のない者たちを罪に定め」る、あるいは定めたがる性質というものが、人間には普遍的に備わっている。
 その肉の性質が sin としての罪なのであり、聖書が取り扱っているのは、こちらの罪深い肉である。
 例えば車の通らない赤信号を渡る/渡らないとか、そういうことは sin ではない( guilty ですらないだろうが)。

  『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』という律法(ホセア書だそうだ)。
 罪なき者を罪と裁いて、いけにえとしてほふって自分は正しいと胸を張る。
 私たちが日ごろ良くやることだ。
 あわれみというのは、文脈からすると、罪を犯した者に対する寛大さ、赦しを指すように思う。
 これを私たちは、全くといって良いほどできない。
 罪深い肉は、まさに律法とは逆の性質を持っている。

 律法は、自分の肉がいかに罪深いかを突きつけてくる。
 そして、律法に死ぬときがくる(参/ローマ7:9-12)。
 だが、死んでも、よみがえる。
 そして肉が赦され律法から自由になる。
 それこそイエスが十字架の死と復活を通して切り開いてくださった道なのである。

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