イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
義と認められるということ
「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。
けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテヤ2:16-21)
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「律法の行ないによっては義と認められ」ないのみならず、律法を行うことによって、自分が不義な存在であることが判明する。
であるから「キリストは罪の助成者」なのではなく、その人は「律法によって律法に死」んだのである。
人間の肉が罪深いゆえんである。
しかし、キリストがそうであったように、その罪の肉は最高刑としての十字架に釘付けにされて、そしてキリストとともに復活する。
それはあたかも、「キリストが私のうちに生きておられる」ようなことであり、この一連の流れはただ神の恵みによるのである。
そうであるから、もしも義が律法に依っているとすると、「それこそキリストの死は無意味」、十字架というのは意味や意義をまったく見出せなくなってしまう。
律法は義に到達するためのものではなく、死に追いやるためのものである。
その死からの救いがキリストの十字架と復活であり、その「キリストを信じる信仰によって義と認められる」のである。
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しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。
けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテヤ2:16-21)
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「律法の行ないによっては義と認められ」ないのみならず、律法を行うことによって、自分が不義な存在であることが判明する。
であるから「キリストは罪の助成者」なのではなく、その人は「律法によって律法に死」んだのである。
人間の肉が罪深いゆえんである。
しかし、キリストがそうであったように、その罪の肉は最高刑としての十字架に釘付けにされて、そしてキリストとともに復活する。
それはあたかも、「キリストが私のうちに生きておられる」ようなことであり、この一連の流れはただ神の恵みによるのである。
そうであるから、もしも義が律法に依っているとすると、「それこそキリストの死は無意味」、十字架というのは意味や意義をまったく見出せなくなってしまう。
律法は義に到達するためのものではなく、死に追いやるためのものである。
その死からの救いがキリストの十字架と復活であり、その「キリストを信じる信仰によって義と認められる」のである。
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