欲、罪、死

 「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:15)

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 ある意味、有名な聖句。
 街宣で好んで用いられているようだ。

 「欲が」とあるが、人間はそもそも、あらゆる種類の欲を持っている。
 性欲がなければ、子孫は続かない。
 食欲が欠けると、自身の生存すら危ぶまれる。
 所有欲は、さまざまな行動の原動力となる。

 ところが、その欲が罪に行き着いてしまう。
 それは、例えば所有欲のために窃盗という罪を犯す、というような意味ではない。
 人間の肉は種々の欲を内在しており、それゆえそもそも神の御前に罪深いのである。
 そしてこの罪の肉は、律法により死とされる。
 このことは、パウロが次のように書いているのと同じことだ。

 「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:23-24)

 この死から救ってくださるのが、御自身死から復活されたキリストである。
 その救いのためには、死を認めるステップがどうしても必要だろう。
 律法群を行おうとすればするほど、それらを守りおおせず、罪深い死の肉であることに、あるいは気付くだろう。
(パリサイ人は、全く無自覚だった。)
 気付いたとき、その人は義を乞い願うだろう。
 そのような人に、神の恵みによってキリストが出会ってくださる。

 その意味で、「罪が熟すると死を生みます」というのは、やはり福音、よき知らせなのである。
 ただ、この箇所だけ拡声器でがなりたてても、それは死を用いた脅迫としか受け止められないのではないだろうか。
 「死」ということの意味合いが、違うのだろう。

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