神との和解

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:17-21)

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 イエス・キリストは、律法に照らして全く落ち度がなかった。
(しばしばパリサイ人と対立するが、それは安息日論争に代表されるように、彼らがおかしな解釈をしていた事に由来する。)
 また、ローマ法に照らしても、罪とされるようなことはされていない。
 そのキリストが、最高刑としての十字架に架かる。
 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」、つまりキリストを十字架につけたのは、誰であろう、父である神である。
 というよりも、神が子イエスをこの世に送ったのは、子を十字架につけるためだった。

 それは、「古いもの」を過ぎ去らせるためである。
 この古いものとは、律法によって死へと堕した罪深い肉を指す。
 イエスは、父によって復活して肉を脱ぎ捨て、その復活の初穂となられた。
 「すべてが新しくな」ったのだ。
 全てを新しくするという契約を携えて、神はキリストを通して、御自身と人間との和解を試みる。
 その和解とは、「違反行為の責めを人々に負わせない」というものだ。
 すなわち、肉の罪を赦して義と認めるということである。
 その人を指して、「新しく造られた者」と呼ぶ。

 パウロは言う。「神の和解を受け入れなさい」。
 神は、ある人に和解勧告を迫る。
 それは、全くの神の恵みによるものだ。
 人には罪深い肉があるので、この勧告に対して全身で抵抗する。
 だが最後、抵抗しきれなくなって、キリストのように最高刑によって死ぬ。
 そして、キリスト同様、「新しく造られた者」として、キリスト同様よみがえる。
 そのときには、神に罪赦されて義と認められた、神との和解が、その人にはある。

 「キリストのうちにある」とは、ある一点をキリストによって通り超えて神と和解していることを言うのではないだろうか。

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