最後のラッパ

 「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」(1コリント15:51-53)

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 いわゆる携挙についての箇所。

 体のよみがえりについては、イエス御自身「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5:29)と仰っている。
 つまり、終わりの日には皆よみがえって、ある者は「いのちを受け」、またある者は「さばきを受ける」。
 その意味での体のよみがえり、これは最後のラッパによってである。

 だが、よみがえりということは入れ子構造のような者だと思う。
 体のよみがえりとは別の、「変えられる」よみがえりである。
 その人にだけ聞こえる最後のラッパ。
(というのは、既に何度もラッパが聞こえていて、追いつめられ続けていた。)
 その最後のラッパというとどめによって、一瞬のうちに変えられる。
 そこには、罪深い肉を赦された自由がある。
 罪深い肉自体は変わらないので、性格や行いが変わるわけでは全くない。
 だが、解放されて自由になるという点において、大きく変わる。しかも一瞬のうちに変わる。
 このよみがえりは、体のよみがえりの小さな相似形だろう。
 だが、小さくとも、とても大切なことだ。
 なぜなら、それが信仰ということなのだから。
 信仰を得て自由になったことが、大きく変わった点なのである。

 だから、最後のラッパとはこの場合、神の恵みなのだ。

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