福音の種

 「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
 キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」(1コリント15:1-10a)

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 福音について。
 おおむね、これ以上でもこれ以下でもないだろう。
 ひとつだけ付け加えることができるならば、単に「私たちの罪のために死なれたこと」とあるのは、「……十字架につけられて死なれたこと」と、「十字架」を加えたい。

 この福音の種は、こうした文字の形で世界中に流通している。
 パウロはかつて、教会(すなわち福音にあずかりキリストを信じる人々)を迫害していた。
 迫害するのだから、やはりこの福音に触れていたに違いない。
 ただ、それはあくまで、自分の立場に反する人々が何を信じ込んでいるのか、という形での触れ方だっただろう。
 もしそうであれば、誤解もあったかもしれない。
 それでも、パウロに蒔かれた福音の種は、信仰の実を結んだ。
 復活のイエスが、迫害者パウロに現れたのである。

 世界中に流通する福音の種は、ただ神の恵みによって、パウロに根源的な変化を及ぼした。
 それはイエスとの出会いにより、福音が文字面を越えて入り込んだからである。
 このことは、パウロに限ったことでは、全くない。
 「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)とあるとおりだ。

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