リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

独立する「倫理」

2013-09-01 17:09:53 | 歴史への視角
 こんにちは。まだくそあついきょうこのごろ。
 それでももう秋で、今日は朝、窓を開けたらアオマツムシが飛んできてパソコンにへばりつきました。もちろん雌ですが。(なぜ、もちろん?)
 いや、なんの虫か分からなかったんですが、小学校から使っている学習小事典では、アオマツムシは1.5cmと書いてあるし、こいつは3センチもあるからカメムシの仲間ではないか、とか。
 例によってネット検索で、体調2~2,5cm、写真はこれ、と明快にそれとわかりました。
    しかし、3cm以上あるのだが、、、
    この前来たゲジゲジも、優に5cmあったし。栄養がいいのかなあ、、、
 
 さて、本日は、下部構造に独立する「倫理」とは何か。
 ここんとこ、笑止なウェーバーの話題とかありましてね。ウェーバーって『職業としての政治』
 
 まあ、一般論からいえば、道徳や倫理というのは『賞賛と優越』の問題で、要するに評価の問題です。
 人間自分の問題ではありはしない。下部構造に直規定されている、人間として口に出すのも恥ずかしいような羞ずかしいような内容です。
 いわく、「心情倫理」などといい、要するに自分の内部の評価基準がよしとすればそれでよいという。
 一方「責任倫理」といい、結果が他人からいいといわれればそれでいいという。
 こういっちゃなんですが、情け無い話ですね。
 すべて行為は、自称自分、あるいは他人による評価次第で決めるわけだ。
 ネット検索すればこんなのしかでてこない。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51797599.html
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51503469.html
 何を言ってんだ、馬鹿野郎。
 ほんとに何も考えず言葉を当てはめるやつら=評論家というのは、世間ですわりがいいんだろうねえ。
 精神的苦労もしねえでうらやましいよ、といえば、こいつは常套句のつもりで「おれは前みたいなエリートじゃねえ、庶民と同じ苦労人なんだ」、というかもしれないが、残念でしたね、わたしゃどこもかしこもエリートじゃないんで、そんな悪口はかすりもしない。
 知るはずもないから教えてやるのだが、前衛的右翼や左翼のコアは、池田信夫が言うような他人の評価で動いているわけではない。もちろん、私も展開したように、運動の大雲影は、大衆人池田と同じ感性と認識で動くのだが、しかし、そのコア、中核(「中核派」ではない)、要するに前衛は、そんなもので動きはしない。もちろん、かの「時代」になにもできなかった池田に分かるはずもない世界のことだが。
 
 本当は上記両者で折り合いがつかない中でどう生きよう、と思う(悩む)者が、本当の倫理者なのだ。
 人間は、社会の中で生きていることを確認しつつ、それが「自分だ」ということまで認識する。
 すなわち、自己の行為がこういう結果を生む、あるいはこういう結果と同時にああいう結果しか生まない。それを認識した上で、さあ、お前という自分はどうする、という問いかけに答えるところが人間のありようなのだ。
 そこで、自分のであれ他人のであれ、評価を選ぶことなど、やむをえないとはいえ、他人に偉そうにしゃべってこれが私の「倫理」でござい、などというのは頭老人ボケじゃねえか、といわれてもしかたのないことだ。
 まあ、そんな人たちばっかりだからシンプルに唯物史観が適用されて社会がわかりやすくてよいのだが。
 
 しかし、あるべき倫理とはそうしたものではないことが唯一60年代の日本で確認されたのだ。
 すなわち、『主体性』。
 
 下部構造に抗し得る倫理とは、「評価されることを選ぶ」のではなく、「耐えることを選ぶ」という事態なのだ。
  
 自分の満足と行為の結果など、そんなもの、折り合いがつくわけがない。そんなことはやってみれば分かることだ。 池田などにやれるはずもないが。
 そこで問われるのは、それではお前は何を我慢するのか、という問いかけだ。
 自分の道徳観に合わない行為か、不十分な行為結果か、それともその全部か。
 この選択は社会の道徳ではない。自分個人が引き受けなければいけない「自分の中での罪」なのだ。
 そんなもの我慢してどうする?
 そんな場所から生きていく。それは他人の評価(そのもの)ではなく、自己が選んだ現実をどう変えていこうか、という投企なのだ。
 「投企って何? 人間なんてみな存在者なんだから、そんなの普通の人間が普通にしてることでしょ」 
 違あう。
 
 わかるかねえ。図式化。
 1 心情倫理・・・結果はどうでようと私は私の信じた道を。それが私の心の神の評価だ。
 2 責任倫理・・・結果次第だ、どんな汚い手を使おうが、結果が他人によければいい。それみたことか、民衆が拍手をしている。
 そして
 3 本来の倫理・・・こうすれば、ああなる。そんなことは分かっている。では、私は私の良心の範囲内でそうすることができるのか。そうしたことに耐えてゆくことで自分にOKを出すのか。日々とは、その問いかけの答えである。 
 そこにはすでに他人の評価を期待する余地はない。自分自身の頭の中で、危ない綱渡りをしていくほかはないのだ。
 きれいごと? 美的麗辞? レトリック?
 疑うやつはやってみれば分かる。そこには具体的な他人の評価が入る余地などありはしない。
 もちろん、疑うやつにやれる仕業ではないのだが。
 
   昔も似たことを書いたけどね、こういうのは本になっていないので(「知性の反乱」くらいさ。その他の自称主体性論者など、ただの社会道徳家=社会評価懇願主義者にすぎないので注意。)、ときどき私が書かないと、日本でさえすでに分かっている人間など残っていないかも知れなそうだしね。
   
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