リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

本を読む読み手は、一人称

2013-06-29 21:48:19 | その他
 こんばんは、お元気ですか? 私は相変わらず元気です、疲れはすれど。これすべて適正な少量の食べ物と十二分な睡眠のおかげでしょう。

 さて、本日の役に立つブログ。
 本を読む人は、読みながら「私だったらどうか」で読んでますよね。読みながら、書いてあることを自分の生きてきた記憶をフル活用して(追体験すべく)読む、っていうか。あいまいな言い方ですが、お客さまの「当たり前だ」、という反応を期待して。

 それがなんだ、って、次回配本、大体概略ができたところ、どうも読んで面白くない。
 隈の前回本、「行為の集成」は、基本、研究者の良質な部分が理解できればいいんで面白かろうがなんだろうがどうでもよかったんですが、それにしても今回面白くない、中途半端なんですね。
 これを読む相手が、研究者のような、左翼のような、若人のような、同じ世代のジジイのような。
 これじゃあ読み直す本人も分裂してしまう。
 
 そういうときは、というとそこいらの本の書き方のハウツー本は、「本を読む相手を具体的に思い浮かべよ」みたいに書いてありますな。それ自体は間違ってないのでそんな本も売れるのですが。
 
 さてところで、じゃあこの命題の意味は何か、と。
 これでは「お前は誰に語るか」を明確にしろ、になるでしょ。
 そうじゃない。本は「だれが《書いているこの私》をフォローするか」、なのです。なんというか、つまりは「読む人間は自分が主人公」とでもいうか。  
 本を読む相手を思い浮かべることでよい結果がでるのは、読む相手を相手に語るからではなく、その相手に妥当するように論旨や言い方が展開される、それにより読んだ人間も共感できるという事情なのです。
 
 こういう言われてみれば当たり前なことなのに、そう書いてある本はありませんぜ。
 というわけで、役に立つブログ、本を書く人は覚えておきましょう、《本を読む人間は一人称》。(小説なら分かりやすいけど小説以外でもそうなのだ、ということです)
 
 ほんで私はどうしようかと。これがいまだに迷って。
 なにしろ応用理論だから、研究を深める書ではなくって。若い人はとうてい読んでも(頭はいくら良くっても)理解できっこない、という事情が大きすぎる、、、反対に年寄は、わたしはとても嫌いだけど、残念ながらいくらボケててもこんな理論なら追体験できる、という事情があって、、、
 
   かなしい、、、年寄は嫌い。 
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