リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

人民的社会科学概念の生成(その2)

2024-05-19 13:28:25 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。今日は大谷が無安打で面白くない。投稿で気分を変えます。
 というか、題がいい加減なので、間が空くと(その2)が何だかわからなくなりますし。

 さて、では人民は概念による社会現象把握ができないのか、といえば、そうではありません。人民は自分の力によって、当時の社会の現実を科学的に把握する。これは社会に既存の、各種利害に混乱した概念を豊富化して把握していくのではなく、豊富な現実を、自分(たち)にとって、意味のある現実として概念的に再構成するのです。
 
 1 史的構築性
 
 人民は、過去・現在・未来について、自己の人生と、自己の仲間の人生を未来に向けて成功的に豊富化するために、時間の移行過程に自己と仲間の生活上の必要を適用します。
 明日はうまくやろう、それには現実が「本当は」どう動くか知らねばならない。俺については過去こうだった。あいつについてはどうもこうしているらしい。結局、現実というのは「こうして動いていくようだぞ」。
 この作業こそ、ブルジョワ思想家の「史的唯物論」を実質的に凌駕する時間的唯物論です。
 この唯物論は、人民の、第1にイデオロギー意義、第2に理論が常に引き受けている因果連関の評価を含みます。「なんだ、結局政府や資本家の言うことは嘘ではないか、みんなにあれはウソだと伝えよう」。また「ストを打ったら賃金が上がった。スト権論というのは正しいじゃないか。ブルジョワ新聞では賃金が上がったのは労資の連携策だ、とかいうが、そうじゃない。俺らがストを打ったから賃金が上がったのだ」。
 
 2 社会科学性
 
 人民は周囲の人間の現実に生じた対応の諸事実から、関係性についての法則を取得します。これが学者や評論家の観念が作った空語ではない、「本当の」関係性の要素です。
 
 3 認識と実践の統一
 
 人民の外界の現実の把握は、それ自体実践を含むしかありません。正しく、かつ、分かりやすくいえば、実行をめぐる瞬間瞬間の忍耐です。あるいは逆から言えば、人民の一見した非実践は、その中に当然にも外界の把握を含むのです。
 ここに必ず存在するのが「現実」です。人民の行為は、前衛主義者の独りよがりや組織大事の空語を排斥せざるを得ません、すなわち、科学以外ではありえないのです。

 4 運動概念の必然性
 
 「3」の契機によって、また、人民の認識は「運動」から離れることができません。外界の運動と、主体としての自己の運動です。人民は外界が次の一瞬に変わらないか、そればかりを気に掛ける、と同時に、外界をどうにかして変えられないか、それもまた不断に注意し続けることになります。
 
 5 諸概念の統合的把握
 
 こうした人民の自分(たち)のための科学的メリットは、しかし、常にブルジョワ思想家からの切り崩しにさらされています。
 ここで研究者の役割は、第1に、社会に広まり続ける傾向性をもつブルジョワ論理の排斥です。
 ついで第2に、人民の個的認識と仲間全体の認識の統合です。この統合には、個的行為と人民全体の賞賛と優越への統合を含むことになるのです。
 
 というわけで、隈の次回作には、生産、消費、分配、交換などという概念は、否定するためにしか登場しません。それが本来あるべき「経済学」批判なのであります。


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