リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

精霊信仰

2011-01-01 10:32:21 | その他
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 
 東京地方、空が澄んで。私などはお正月は大好きで、って、行事は何でも好きですが、お月見とかね。たしかお正月は学校でやってもいいんですよね。こんなものは宗教じゃないってだれでも知ってるところが庶民の直感ですね。
 
 いや、日本のアニミズムだ、とか神道イデオロギーの行事だって、いう人もあるかな。
 
 宗教なんてものは人間の宗教心の発現であるうちは別に意味などないものなんですよ。
 意味がないから義務教育小学校でやってもいい。
 っていうか、宗教心の発現のほとんど多くは大事なことなんですな。
 お葬式とか、命日とか、だいたいそんな悪いことが多いのですが、たまにあるお祭り騒ぎは大事にしないと。
 
 なんて、左翼のブログで書くには言い訳が。
 だいたいね、仏教と違って神道には道徳性がない、ないから国家宗教にはなれない、ありうるのは天皇崇拝を押し付ける象徴としてだけだ、って書きましたでしょ。そもそも神道は天皇のただの祖先崇拝教だから、われわれ下々と関係があったことなどないのですよ。今から見れば戦前の神道イデオローグなど気違いにしか見えないのは彼らが尋常でない大馬鹿だからです。かたや、仏教イデオローグは、いつ見てもそうバカには見えない。それは仏教はもとから道徳を持っているんで、正気の人間でも道具として使えるからです。(今知ったのですが、IMEには「気違い」という単語がないんですね、ま、近代的なことで)
 かくて、戦後、政教分離が行われてしまえば何も人民に残ることは出来ない。
 神道イデオローグがなにを言おうと、村の鎮守は天皇教などとは関係なく発生し存在しつづけたものです。ま、ほとんどの「ご本尊」は天皇教に乗っ取られてますけどね。
 
 で、アニミズムは? って、アニミズムを論理上否定できないでしょ?
 われわれは仏教の教義は否定できる。誰も本当のことを知らんでくっちゃべってるだけだから。歴史的にも、いや今現在でも、教義者(仏教者)と自称しながら誰もが違うことをしゃべる、そんなものは「教義」ではない。キリスト教も然り。というよりももっと悪い。「神は自然世界に○○をした」などと、2千年間も神を懼れぬ嘘ばかりついている。いくら科学が自分の言を否定しても自分はそれを受け入れるくせに(がんばって抵抗しているのは進化論くらいだ)何の反省もしていない。新しく神の仕業を都合で作り出すだけだ。「騙り」である。彼らは、自分が騙している事を知りながら生きるためにウソをつく生活的詐欺師、以下である。彼らを地獄に落とさずに誰を落とすというのか。
 ま、否定できるのは教義だけで、仏やゼウスはいるかもしれませんけどね。

 同様に、精霊信仰に教義があれば否定できるけれど、そんなものに教義はない。あるのは精霊がいるかどうかだけ。樹に精霊がいることをどうやって否定する? 精霊はいるかもしれないがいないかもしれない。いずれでもそれは、思う人間のただの選択行為に過ぎません。
 そして、
 肝心なところですね、改行しますよ。 
 精霊は、規制しません。
 精霊は、権力行使をしません。
 精霊は、各種人間がこさえたまがい物の宗教の教義とは異なり、本「人」は不本意かもしれませんが、それを思う人間の自由意志の下、人間の自由を拡大してくれるものです。
 
 とゆうわけで、正月もお葬式も、主義を問わず普通に暮らせばいいのです。
 
    拍手(かしわで)なんか数えて打つなよ。そりゃ人間の仕業だ。 
 
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