リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

資本論解釈に見る、視点に依存する規定性(その1)

2020-06-20 11:41:18 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。梅雨とのことですが東京地方今日は良い天気、2、3回暑い目に会うと、最高気温予想28度って、涼しくてありがたいくらいです。

 さて、今日の本題も、ずっと下方。
 とわざわざ書くほど、今日は記事がだらだら長い。なんだろね、意味も薄く。普通の方たちは、今日はスルーしたほうがいいかも。

その1)
 読者の方におかれましては、調味料のキャップの取り方をJIS規格並みに統一してくださいませんか?
 って誰に言ってんだよとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、はっきり言って、当ブログにいらっしゃる方は、インテリか、あるいは社会に対峙(たいじ)するのがなんの苦労か、と思う方に限られると思っております。そういう方は、当社会では稀有(けう)。そういう方は世間、たとえば上司も一言を聞かざるを得ない人間なのです。常にね。とくに製造業に入ったあなた、エリートですし期待されてますぜ。
 というわけで、ブルドッグソース等に入社されましたら、ぜひ、蓋の取り方を統一していただきたい。ソースの蓋の取り方、あれ、常に不明。不明で家人に渡すと1秒で取りますが、ともかく蓋付近真っ白けで突きつけられてもわかりゃあしない。目え見えねえもん。老眼の方はお分かりでしょうが、私のような弱視でもそうです。
 それからゴミ分別用の蓋取り、これも料理酒、オリーブオイル、ソースで全部違う。ぜひ業界的に働きかけていただきたい。これは前世代共通では? うまく国家公務員になれた人は、もうそれだけで責任があるからね。通産省なり、厚労省なり、期待してますぜ。もっとも期待の優先度は低いけどね。高かったら私自身で闘うけど、蓋の取り方だからねえ、、、でも権限ある当事者となったら責任問題ですので。ぜひよろしく。 
 
その2)
 一昨夜(6月18日)、死去後ずいぶん経ってネットでわさお(6月8日死去)の思い出話が出てました。そうかそんな時期か、と。
 私もなんども葬式・御通夜に出ましたが、そんな折に司会者の言う「故人の思い出話」なんかできやしませんよね。せいぜい「驚いた」くらいですし、それでいいのです。若人の方は失礼だと怒るかもしれませんが、できやしませんて。直後ですもの。死んだ情報のほうが重要ですし、それに驚かないやつは来る必要もない。その後、しばらく経って知り合い同士で集まった折、ようやく思い出話を始めるのです。それで周りも癒される。
 わさお君も、そうやって思い出話をされて、わたし的にはよかったな。周りの癒し。なんたって11、2年前初めてネットに出た頃、かわいかったし。
 
その3)
 「君のような顧客をぼくは喜んで失う」アマゾンCEO、人種差別的な顧客への対応が称賛される。(以下、引用長文)
「ベゾス氏はアマゾンの顧客2人からここ数日以内に送られてきたEメールのスクリーンショットを投稿した。メールは同社が"Black Lives Matter(黒人の命は大切だ)運動"を支持していることを批判するものだった。このうちデイブ(Dave)と名乗る男性が送ってきたメッセージには、下品な言葉や人種差別的な中傷が含まれていて、「お前とのビジネスは終わりだ」と書かれていた。
 ベゾス氏はこのメッセージをインスタグラムに投稿し、そのキャプションに「デイブ、君のような顧客をぼくは喜んで失う」と書いた。
「こうしたヘイト(憎悪)は、影に身を潜めていることを許されるべきでない。目に見えるようにすることが重要だ。これはこうした問題の1つの例に過ぎない」ともベゾス氏は書いている。」(buizinessinsider)
 デイブ君、ショックだろうねえ。こういう差別発言屋って、悪口言いながら自分が相手の仲間だと思ってるんだよね。それが今日の自分の存在のしがい。ところが孤独の現実がバレてしまった。ほかに仲間もいないから、その日はコンビにでも行ってひたすら当り散らすしかない。まあ、そういう吹き溜まりの傷をなめあうSNSもあるのか知らないが。
 って、多少なりとも同情しているわたし。わたしもあちこちでさんざんお付き合いをさせていただきましたが、もう勤めてないから微少な同情心も湧きます。一人ぼっちのあなた。

最後、これは短く。
 上野千鶴子、行岡良治「論争 アンペイドワークをめぐって」。フェミニスト支援用に読んでみるか、と借りた。ひどい。何が論争だ。ただのブントの仲間割れ。井戸端でやってろ。
 今まで人の商売を邪魔したことはない(つもりだ)けれど、これは言う。買うな。ムダ。愚劣にして、けがらわしい。消しゴムで読んだ記憶を消したいくらいだ。


 というわけで、本日は次回作価値論部分への注がらみで確認した、大野節夫「マルクス経済学のパラダイム」をきっかけに、オタク論議。
 これも素人の方には関係ないけど、物事には視点というものが、主体の自由選択で存在します。ただし、自由ではありますが、それによって見えるものも見えなくなる、という話で。
 こういうのはどこまで書くのがブログ的なのか難しい。でも本当に分かっている人間というのは、この筋道を分かりやすく書くことができる、のがほんとうです。やってみましょう。

 この大野氏はパラダイム変換をしたいそうで、どうしたいかというと、「他の商品との交換に至るまでにその商品に要する労働がすべて商品価値を形成することになる」説を通説にしたい。運輸、保管、販売、宣伝、記帳エトセトラの費用です。 
 こういう話は50年前からあって、たとえば、赤堀邦雄とか飯盛信男とかという人。そういう人たちは「第三次産業の労働も価値を作る」と主張しました。もちろん、大野氏の視点は単に経営企業の実際的視点ですが、こちらは労働者の視点。労働者は全員搾取されている、という、理屈は別な話ですが、でも、事情は同じ。
 事情を示す例を出しましょう。
 たとえば、ここに18歳の通り魔Aが同じ18歳の被害者B君を刺した、という事件があったとします。
 この事件は同じ思春期から青春期の若者についての諸学問で解ける、と思ったら、それは余りにも世間知らずです。B君については人類共通の理論が打ち立てられるかも知れない。しかし、その理論では通り魔を根絶することはできない。この同じ理論では、「被害者のB君だって同じ状況なら同じことをしたかもしれないから執行猶予にしてあげよう」という結論以外に出はしない。そんな「誰でもが起こすから」では理不尽な通り魔事件は絶対に根絶ができない。その「同じ状況」なるものを社会から打ち捨てない限り、また通り魔事件は起こる。それは通り魔Aに視点を定めて、その状況を分析し、その状況の規定性を排除するしかない。「人はみんな同じ」で済むことなどない、といってはいない。だがそんなものは、平和な時代の恋愛沙汰事件くらいだ。
 「そんなの別に当たり前のこと? そうかね、二人とも同じ19歳の若者だよ、同じ人間にそんな特別なことなんてないんじゃないの?」
 そう言うのが先の両氏の「全社会労働者価値論」(と、名づけてみました)です。(それぞれ「全」には商業などの例外がありますが)
 
1 旧来の?価値
 まずは価値概念を宇野経済学的に述べておきましょう。
 交換価値は、必需品労働者の自分が作った製品の買い戻し行為によって決まります。買い戻す(単位のない)価格が賃金になるわけです。それ以外に労働者賃金が、したがって価値が、決まる理由はありません。しかし、そこで決まることは避けられないのです。いったん決まった賃金は、他の労働者にも波及する。すなわち、各産業労働者の収奪構成、耳目に受け取りやすく言えば収奪度は、生産労働者の賃金によって決定されるのです。

2 全社会労働者が価値を作れば?
 もちろん収奪度といってもサービス業等の場合は、生産労働者のように、剰余と賃金の構成の度合い、というわけではありません。まず賃金があり、それに雇用者の取り分が恣意的に加わるのです。雇用者が「俺の取り分はただでもいいや」と思えばそれでも社会は成立する。あるいは奢侈品を法外な価格で売る商店があっても、それを買う者さえいれば社会は成立する。これを経済学が規定することはできない。従って、そもそも生産産業とは違う、原理論の範囲外の事項なのです。
 サービス業も流通費用も資本家の恣意下の事象なのです。恣意をいくら理論化しようが、それは資本家の観念の形象となるに過ぎない。それは経済学には混ぜられない。
 製品を今日売ろうが明日売ろうが(保管)、工場の前で売ろうが、貴族の家の前で売ろうが(流通)それは資本家の置かれた状況による、資本家に属する不分明な事情です。
 恣意は恣意一般として資本家に帰属し、資本家の競争上の制約として、労働者賃金一般の費用が必要経費となるだけのことです。
 もしも焦点が賃金労働者一般であれば、人はなぜ資本家一般が儲けられるのかを知ることはない。「それは労働者が自分のものを作っているのにそれを資本家が強奪するからだ」という答えには、「吉本興業の社員は人を笑わせている、同じではないか」と反論されるに終わる。そこにあるのは「効用一般」です。そもそも見物人が払う金は、もともとどこにあったのでしょうか? その金はどこからか忽然と現れるしかない。全ては闇の中です。

3 価値概念提出の本来的意義

 こうして、生産労働者の視点に立ったとき、資本が過剰となり生産が滞る事情が分かり、先進資本主義社会で製造業が一部を除き衰退してサービス業ばかりになることが分かり、後進国が資本主義となる事情が分かる。後追いで評論されるのではなしに、因果連関として明らかにされるので、「事前に」分かるのです。だから「科学」なのです。
 そして何よりも重要なのは、そもそも社会科学の成立は、人間が、自己の生産手段で生きていくことができなくなった、特異な社会を解明するために存在し始めたということです。
 人は誰でも親から受け継いだ、あるいは自分で見つけた、生産手段によって生きてきたし、生きていける、それが類人猿出現以来数百万年の歴史です。生産物は強奪されるかもしれないが、類人猿等はその占有する生産手段でまた生産を続けていく。この「生産手段」の個人にとっての重要さも闇の中へ落ちていく。
 科学は、決してPCで世界賭博をし続けて金を儲けたり、手慰みの絵を描いて人から消費物資を受け生きる理由を解くために存在するのではないのです。そうして生きてはいけないわけではありません。しかしそうして生きられる理由を解くには科学ではなく年寄りの人生訓で足りるのです。

 と、まあ批判したように見えますが、別に論理がアホだとか言っているのではなく、視点の問題だ、と言っています。
 こういう理屈はフェミニズム運動と絡み合うから一筋縄ではいかない。むげにアホとか言って切り捨てると、角を矯めて牛を殺す、というわけです。むげじゃなくてどうする、というのは別な話。今日は別な話には行かずに、直線的に前に進みます。項は改めますよ。オタクの方たちは次のページへ。
 では普通の方たちは、また来週。
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