リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

シジフォスの神話

2008-05-18 22:45:25 | 行為
 カミュという一昔前のフランスの思想家の著作に、「シジフォスの神話」というものがあります。内容はネットで検索してもらうとして、かいつまんで言えば、シジフォスさんが神に岩山の頂上に岩を押し上げる仕事を課されてしまった。神は性の悪いことに岩が上がるとまた蹴落としてしまうんですね(そうは書いてないけど)、でも彼は黙々とその仕事を続ける。神に蹴落とされた石を何万回もただ押し上げる。
 人間なんてそんなものだ、という話です。

 私もその本がはやった時分に思春期だったもので、実に納得したものですが、今考えてみると情けない。
 結局それは、資本主義社会で生産労働から離された学生やサラリーマンの生きる姿を表しただけのことでした。
 米作ってる人に、「その米、できたら食べる前に燃やしちゃうぜ」っていったら殺されて当然ですぜ。

 こういうのは、行為の成果が、個人の身体が「離れた」事態を指すわけで。
 結局、行為っていうのは、関係の中に、埋め込まれている。
 資本主義では、本来の行為の失敗の認識の中で、しかしそれを続けなければならないという強制のなかで、その認識も強制されていく。
 まあ、行為者の視点から主体的にいえば、身体から離れた行為のみを続けることができる根拠を認識の中に定めていく、そんな作業をとっていくわけです。
 それは、人間やその他の生物の自然的過程であれば、イノシシを捕りに行ったが捕れずに、行った先の小川の水を飲むしかなかった。それでも住まいの洞窟の中に溜まったドブ水を飲むよりはましだ。明日もこの地域で狩をするしかない。とすれば、イノシシが捕れなくともキレイな水が飲めれば満足するしかない。
 そんな過程ですね。
 「満足」とは行為の将来の確保だから、「キレイな水飲み」が「イノシシ捕り」に変わって行為の将来となるのは、行為本来の過程なのです。
 が残念ながら、それでは早晩栄養不足で死んでしまう。
 その通りに世界中の人が死んでいます。

 前回のからみとして、今回も前回やめるといった行為の話じゃないかって?
 
 今のは行為の原理の話じゃなくて、個別の行為の話なんですね。
 少なくともぼくにとっては、ぼくが生きている、あるいは生きてきた、話です。
 ところが原理には人が出てこない。そんな話を展開しても、それはつまらない。
 つまらないけど、誰かが人知れず従事するしかない、みたいなところです。



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