こんにちは、いつの間にか師走で。東京地方突然平年並み気温とやらで寒くてしょうがない。日差しもないし寒いのは嫌い。
ことしは夏がなかったように早かったのは、蟄居(ちっきょ)してじっと我慢していたからでしょうか。暑いのも嫌い。
季節がちょうどいいと何もかも調子がいいから不思議。当然か。
サッカー、またしてもよかったですね。偶然で決まるというのもさみしい話ですが。
団体競技はメンタルの調整ができないから大変だと思う。団体の心は自分じゃどうしようもないからね。勝つのが当然と思えば緊張が消えるし、点入れられてこんなはずはないと思えば平静を取り戻せないし。実力は前提でも、運は必須なんでしょう。
わたしなんか、将棋とか、浮ついて勝負してたほうが楽しいからぜんぜん合わないね。仲間にぶっとばされちゃうよ。
今日は政治ネタの感想。
「自公が反撃能力保有で合意「公明党思ったより」自民党“拍子抜け”の合意」(TBS)
ほんと、仏教徒が聞いて呆れる。坊主が人を殺していいのか。何の理念もないんだよね。まあ庶民的といえば庶民的。太平洋戦争は庶民が起こしたのだ。
「岸田首相、防衛費財源「まずは歳出改革に最大限の努力」 コスト縮減に努める考え」産経)
ばかいってるよ。6兆円増額するんだぜ。千億、2千億の削減だって無理なくせに。
皆様にはいまのうちに反対しとかないと増税は必至ですぜ。
「【独自】自衛隊弾薬庫、130棟整備へ…「反撃能力」要の長射程ミサイル想定」(読売新聞オンライン)
こういう使い道が正しい。だれも武器の増強なんか寝耳に水で考えていないときは、直接の武器ではなくて、すそ野を固めておくこと。弾薬はもちろん製造元の増産体制、増員人員の宿舎や病院、軍医、看護師、医薬品の調達先、制服の替えや用地やトラック、要するに今、形ばかり整っているもの全部を実用品に。
いつかいったでしょ、武器の数だけあったって戦争はできない。実際に戦うには今の防衛費の何倍もお金がかかる。
って、お前はだれの味方か、といわれてしまう。
ともかく威勢ばっかりの空語は、イデオロギーを超えて大嫌い。太平洋戦争はそういう空語に酔う庶民が起こしたのだ。
というわけで、本題、前回言葉足らずだったので、続き。
前回は恐慌論でした。そもそも恐慌論なんてもんは経済学なんだよね。人生には意味ない。
いわゆる近代経済学の目標が資本主義経済の安定ないし成長にあることはお分かりと思いますが、そこにどんな「理論」があろうと、問題はその理論には本質がない、ということです。そこには手段はあるが、手段を根拠づける理論がない。従って、資本家でない人民には無用な理論なのです。当たりゃあしないので資本家にも無用ですが。
これと同様に、マルクス経済学の恐慌理論にも本質がない、あるいは資本論との連関漬けはあるが、その理論には理論自体の操作性がない。なぜか。「労働力の商品化の無理」が組み込みえないからです。
マルクス経済学の恐慌論は経済学なのです、近代経済学とそっくりの。
マルクス主義経済学だって同じですが。周期的恐慌? それただの歴史学じゃん。経営者エンゲルスだって知ってたさ。
そもそも資本論には資本家しか出てこない。そんな理論で最後的恐慌が起こるわけがない。なぜか。資本主義の主は資本家ではなく支配者だからです。支配者を撃たない限り、最後的恐慌を語ることはできない。
当たり前です。
そのカギが、数人の人間は見つけた資本論のアナ、「労働力商品化の無理」なのです。
さて、では資本論の何が悪い? 支配を無視したブルジョワの経済学だからです。
資本主義の解明は、支配を廃絶せんとするプロレタリアの「社会主義」にしかできない。もちろんそれは経済学ではありません。なんどもいうようですが、経済学には本質はないのです。そこには人間行為者はいず、人間の「欲望」しかない。そんな学に何億人が300年も付き合ってきたというのだから笑わずにいられるでしょうか。
あははははは。
しかも、自称社会主義者たちが率先して。
けけけけけけ。
ま、そういうわけで、次々回作品が始まろうとしているのですが、次回作、もう中身出来てつまらないので神棚に上げてあります。
なぜこんな面白いことをマルクス以後150年も他人任せにしてきたのかねえ。
ことしは夏がなかったように早かったのは、蟄居(ちっきょ)してじっと我慢していたからでしょうか。暑いのも嫌い。
季節がちょうどいいと何もかも調子がいいから不思議。当然か。
サッカー、またしてもよかったですね。偶然で決まるというのもさみしい話ですが。
団体競技はメンタルの調整ができないから大変だと思う。団体の心は自分じゃどうしようもないからね。勝つのが当然と思えば緊張が消えるし、点入れられてこんなはずはないと思えば平静を取り戻せないし。実力は前提でも、運は必須なんでしょう。
わたしなんか、将棋とか、浮ついて勝負してたほうが楽しいからぜんぜん合わないね。仲間にぶっとばされちゃうよ。
今日は政治ネタの感想。
「自公が反撃能力保有で合意「公明党思ったより」自民党“拍子抜け”の合意」(TBS)
ほんと、仏教徒が聞いて呆れる。坊主が人を殺していいのか。何の理念もないんだよね。まあ庶民的といえば庶民的。太平洋戦争は庶民が起こしたのだ。
「岸田首相、防衛費財源「まずは歳出改革に最大限の努力」 コスト縮減に努める考え」産経)
ばかいってるよ。6兆円増額するんだぜ。千億、2千億の削減だって無理なくせに。
皆様にはいまのうちに反対しとかないと増税は必至ですぜ。
「【独自】自衛隊弾薬庫、130棟整備へ…「反撃能力」要の長射程ミサイル想定」(読売新聞オンライン)
こういう使い道が正しい。だれも武器の増強なんか寝耳に水で考えていないときは、直接の武器ではなくて、すそ野を固めておくこと。弾薬はもちろん製造元の増産体制、増員人員の宿舎や病院、軍医、看護師、医薬品の調達先、制服の替えや用地やトラック、要するに今、形ばかり整っているもの全部を実用品に。
いつかいったでしょ、武器の数だけあったって戦争はできない。実際に戦うには今の防衛費の何倍もお金がかかる。
って、お前はだれの味方か、といわれてしまう。
ともかく威勢ばっかりの空語は、イデオロギーを超えて大嫌い。太平洋戦争はそういう空語に酔う庶民が起こしたのだ。
というわけで、本題、前回言葉足らずだったので、続き。
前回は恐慌論でした。そもそも恐慌論なんてもんは経済学なんだよね。人生には意味ない。
いわゆる近代経済学の目標が資本主義経済の安定ないし成長にあることはお分かりと思いますが、そこにどんな「理論」があろうと、問題はその理論には本質がない、ということです。そこには手段はあるが、手段を根拠づける理論がない。従って、資本家でない人民には無用な理論なのです。当たりゃあしないので資本家にも無用ですが。
これと同様に、マルクス経済学の恐慌理論にも本質がない、あるいは資本論との連関漬けはあるが、その理論には理論自体の操作性がない。なぜか。「労働力の商品化の無理」が組み込みえないからです。
マルクス経済学の恐慌論は経済学なのです、近代経済学とそっくりの。
マルクス主義経済学だって同じですが。周期的恐慌? それただの歴史学じゃん。経営者エンゲルスだって知ってたさ。
そもそも資本論には資本家しか出てこない。そんな理論で最後的恐慌が起こるわけがない。なぜか。資本主義の主は資本家ではなく支配者だからです。支配者を撃たない限り、最後的恐慌を語ることはできない。
当たり前です。
そのカギが、数人の人間は見つけた資本論のアナ、「労働力商品化の無理」なのです。
さて、では資本論の何が悪い? 支配を無視したブルジョワの経済学だからです。
資本主義の解明は、支配を廃絶せんとするプロレタリアの「社会主義」にしかできない。もちろんそれは経済学ではありません。なんどもいうようですが、経済学には本質はないのです。そこには人間行為者はいず、人間の「欲望」しかない。そんな学に何億人が300年も付き合ってきたというのだから笑わずにいられるでしょうか。
あははははは。
しかも、自称社会主義者たちが率先して。
けけけけけけ。
ま、そういうわけで、次々回作品が始まろうとしているのですが、次回作、もう中身出来てつまらないので神棚に上げてあります。
なぜこんな面白いことをマルクス以後150年も他人任せにしてきたのかねえ。
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