リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

理系のしあわせ

2013-09-21 21:47:47 | その他
 こんばんは。ほんと、暑い3ヶ月を何もしないで過ごしますと、毎年のことですが、「俺はタダのクズの言い訳屋になったんじゃないか」 と疑心暗鬼にとらわれます。そんなときに涼しいとやっと自分にホっとします。おりゃうそつきじゃねえぞ (ちょっと論文を進ませている、という謂い)。  
 この前もちらっと述べましたが、いよいよこのブログも7年目に入りました。
 なぜ初七日とか7年目の浮気とか7があるかというと、5はそれはそれで存在感があるからですね。
 じゃあ、6は、って6を述べるときは7を使えるんですよね。したがって、数字は奇数のみ大事にすればいい。
 1年目1周忌に、2年目は3回忌。3回目は3周忌にすればいい。4は縁起が悪いからお味噌だけれど、使いたかったら3と5で工作できる。
 いやこのブログも6年過ぎたというだけですが。それじゃなにもめでたくない。7回忌。
 それでも私が始めた時はgooブログも90万個しかなかったですが、もう190万個あります。gooも伸び悩んでますけどね。ケチケチgooも(私のような先進派はみんな)もうやめちゃうかな。やめられてから反省したって遅いですぜ。わたしゃやめたらもう2度などやらん。 

 さて、ここんとこ、同情せざるをえない現実が多々目の前を通り過ぎ。
 その中で、私の基準では不幸には該当しない方々が交じっているのを見ると、そんな方々にはもう少し自分の幸せを自覚してほしい気もします。
 なんであたしが、って反論はあれど (あなたのことではありません)、生きてる限り、他人には、相対的に扱うしかないとですよね。
 なかなか、平等に公平になるというのは、それに意味があるのかないのかは別として、むつかしい作業です。

 というわけで、本日の話題は、関係ありませんが、命題の立て方、
 ってなんだ、って、わかんないよね。
 じゃあ、言い換え。私とかがなにかを発見した時の社会の仕組みの述べ方。
 
 いや、次回配本の本は、研究者じゃなくて普通の人あてなんで、なかなか苦労してます、ってほんとは苦労しそうなんで立ち止まっているだけですが。
 苦労は嫌い。ってえらそうだけれど、私は苦労が嫌いな、読む人であるあなたの味方ですよお、、、って誰も偉くないか。
 
 さて、苦労しないのが数学者やらという理学系研究者。彼らは数学のような稚拙幼児語で語ればそれで済む。幼児語だからどんな外国人にも容易に通じる。うらやましい、、、
 
 数学なんて偉そうにいうけど、内実といえば加減乗除のこと。アホでもできる、はずですがね。
 いやその加減乗除もできないお前(私)はどうしようもない愚鈍だ、というのはそれでそれで、そうだっていいんですけどね。

 自分のことはどうでも、微分だ積分だ、行列だ、って、結局内実は、加減乗除でしょ。
 「いや、もっと高度なものがある」、ってったって、自分で数式を定義してこさえた「数学」はあるだろうが、結局、それ、自分が加減乗除だけを駆使して作った定義じゃないの。
 現実に当たらざるをえない工学は別として、純粋理学の95%の努力なんざ、お茶飲み話さ。
  
 ところがところが、独創的な社会科学というものは、その定義を、口で納得させないといけない、これが一苦労。
 そりゃ説得能力がないんだ、といわれればそのとおりで反論する気もないが、ともかくそういう言語能力がないとかの理由で大変なのさ。
 かくて、よっぽど議論を単純化するかなあ、という退嬰的な思いが、考えの多くを占めています。

 ここから先は、ほんとに内輪の若き研究者へのグチ。

 例として、下記のような立言があったとします。ちょっと長いけど。(わたし的には、こういうのがふつうの書き方なのですが)

「およそ思想の機能というものは、他人に自由を与えることであり、それ以外にはありません。
 人は評論家の言により、それまでの社会の思想――それによっては自分に自由を与えられない思想から、その呪縛から、脱することができます。
 新しい思想により、賞賛と優越的自由が与えられるわけです。
 賞賛と優越は、科学によっては与えられない。
 周りの噂話によっても与えられない。
 それを与えられるのは権力者、ないし、権力者へ対抗し得る権力を持つかのごとき、「攻撃的な」思想だけなのです。
 では、社会科学の役割とは。
 それはそれまでの思想の誤りを発見し、それまでの思想の権威を貶めるところにあります。そしてさしあたり、思想上では、それ以上のものではありません。
 もちろん、中には新しい世の中を指し示すことがあるが、それは大思想家の社会科学に限られるというわけです。」
 
 さて、これで内容を判かれと思うほどわたしゃ傲慢ではありませんな。読者の方々は、あるは17歳にして生涯の傑作絵画を描こうとしているし、あるいは18歳にしてアメリカ実証主義の虚妄を突こうとされている。中には16歳にして、明日にもM町のターミナル駅前で新曲を披露しようと今はくつろいでいるかもしれない。ほとんどが社会学プロパーであるはずもない、っていうか社会学プロパーだってわからないかも。
 
 そこで、これを説明し直さなければいけませんが、あにはからんや、ここに加減乗除をどう突っ込んだって、ご覧の「明日のさだまさし」には理解できませんやね。そこが社会科学の哀しい定めです。
 色がつくと分かりやすいんですけどね。以下、( )を追加。
 
「およそ思想の機能というものは、他人に自由を与えることであり、それ以外にはありません。
 人は評論家の言により、それまでの思想――それによっては自分に自由を与えられない思想から、その呪縛から、脱することができます。
 (思想は人に正しいことを示すことで正当性を確保する、と思うなら、それはそうではない。正しくても間違っていても思想は思想として社会で機能する。その機能とは、支配社会においては、その社会で被支配下の人間に、その支配を覆すための彼らの行動を、文言で示すことだ。
 「正しいのに機能しない」、とは、思想とは人間個人の行動をつくものであるからだ。人間はまず食っていかなければならぬ。社長の悪口をいえば首になる人間が、どうして正しかろうが社長の悪口をいう人間居同調できようか。
 「正しくないのに機能する」というのも、同じ理由である。可愛がってくれる社長の敵である会長を貶める思想であれば、某会社部長は、容易にその思想を受け入れる。
 社長が総理だろうが係長だろうが天皇だろうが日本が誇る思想家、、、そんなのいないな、、、隈だろうが、理屈は一緒、、、)
 
 、、、ああ、もう疲れちゃった、ばかばかしい。
 ( )内って、初めの1行の後半、半分の説明ですよ。これで8倍あるんです。全部だったら1行の16倍 (「他人に自由を与える」って部分は説明してませんがね)。空しい。
 もっと続ければ、1冊の本について、あと16冊いるってことに。
 実は『行為の集成』ってそんな本なんですよね、、、かなしい。他人に分かるわけないやね。
 
 圧倒的に空しくなってきた。隈、実は歴史を駆け抜けすぎた男、、、
   どうだっていいやな。
 本題は、理系は学問が簡単でいいという話で。
 
 他国の社会科学も知らない日本人が見たら難しいかもしれませんが、それは幸いなことに外観にすぎません。だからどんな社会科学者ならぬ日本の文学教授でも思想家然としていられるわけで。
 フランス思想なるものは、どう美しく御託を並べられるかで評価されます。
 したがって、異国の読者は、美文の内容空虚な「論」を読んだら、あ、こいつはフランス文化県民だな、とわかります。
 ドイツ思想なるものは、どう文章を体系立って響かせるかで評価されます。
 異国の読者は、初めに聞きなれぬ概念定義をしてその概念に沿って空虚な論が展開されている「論」を読んだら、あ、こいつはゲル万か、と分かります。
 アメリカ科学なるものは、数字を並べて何かを述べることで評価されます。
 なので、意味は明晰で単に現実と引き比べて間違っているだけの話は、ああ、アメリカ人の与太か、と分かります。
 
 哀しいけれど、私にはみなさまという若い読者がおられますので。
 千万人といえども吾行かん。
 いやさ、世界人民、70億人といえども吾行かん。
 わたしゃ孟子の700倍偉い、ということですね。正確にいうと70億人のうち1億分の1人は私の読者とみなして、全体的には1騎当億で行きませんかね。(あ。これ計算むずかし)
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