リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

年寄ったからってウソつくんじゃねえよ

2014-09-06 20:56:44 | 断片
 さだ。
 まあ、なにかと不満な出来事はありつつも、はしからわすれちまおうという気持ちに素直についてくる中高年頭脳がうっとおしい今日この頃。

 
 ようするにあれこれいいたいことはあったけど忘れちまったよ、問題は今も流れているさだまさし。

 
 今は昔の「案山子」を歌うのはいいが、食器を洗う私の耳に、続いていわく、「これは津和野という町があってね、、、」
 ば~~かやろ。そんなもんじゃないだろ。歌っていうのは、詩っていうのはそんなもんじゃないだろ。
 お前の頭にどこで浮かんだ着想だろうが、歌いたかったお前はそんなもんじゃないだろ、若かったお前、お前はどこの場所の歌であれ、その中身が歌いたかったんだろ。
 真摯なおまえはどこへいったんだ。

 
 ひきつづき続く谷村との番組、さだ、イデオロギッシュ。いわく、「ぼくらが歌わなきゃいけないから」
   はあ……

 
 昔、吉本隆明が四季派の悪口に、「中原中也も生きていれば戦争賛歌を歌ったにちがいない」といった件で、ここにも反論を書きましたが、吉本もいい加減に書くからそういう目に会う。基本は彼の洞察は正しい。その洞察の根拠を散文的に書けないから、というかもちろん自分でもわからないからバカなことを書き、人にバカだと言われる。

 
 なぜ四季派が、国家を挙げて戦争にひた走りに走るさなか、戦争賛歌を歌ったか、それは彼らが吉本が言うように花鳥風月を歌ってきたからでは決してない。
 彼らが大衆の心を歌ってきたからだ。
 もういいかい、このへんで。もう話わかったろ、おじちゃん無駄な話すんのきらいなんだよね。
 

   はあ……
 佐田も同様に大衆を信じている。
   はあ……
 そうして、大衆が戦争になだれ込むのだ。歌うたいや漫才師が、新聞や義務教育学校があおりたてた国家万歳の大衆の気持ちを支えつつ、彼らの望む戦争へとまい進させたのだ。
 それは決して、軍部や政治家が強制したからではない。
 もちろん特高や憲兵は強制したが、政治家も陸海軍大将も、大衆の行方を確認して、大丈夫だという確認ののち、戦争へ突入したのだ。

 
 いやなものをみてしまった。
 自分の心にウソをつくようになっては、詩人はおろか、人間は、おしまいだ。

 
 
    中原中也は大衆のことなど見るはずもないことは、以前に書いた。

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