リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「偶然性」は社会科学上存在しうるか

2024-08-17 16:15:03 | 賃金・価値・権力
 標題は、ほんとは、「心の中で副題変更」。

 こんにちは。東京地方、昨日は大雨、だけど30度未満。わたしは晴れ男なので大雨とは関係ありませんが、湿度100%でも30度以下なら許す、と思いました。家人は土砂降りの中を歩いたようですが、それでも暑いよりましと言っていました。すばらしい30度未満。
 今朝ベランダに出ると昔の夏休みの匂いが。気温を調べると朝なので30度。真実の夏は30度以下と知りました。
 ま、いいや。
 もう8月も半分過ぎ。季節モノ食べた? 今年はスイカを2回。初め、流行りの容器入り切り身でいまいち満足せず、次に8分の1切り身。やっぱ皮付きはいい。おすすめ。
 でもスイカって嫌いな人いるんだよね、うちの子とか。そういう人はメロンも嫌い。まあ安上がりでよい。もう新潟産も終わりの時期なので、好きな方は今のうちにどうぞ。
 
 今朝のニュースで若人はスマホのSNS情報で、世間の情報を入手するそうな。私のようなパソコン派だとわからないけど、考えてみればそうかも。新聞なんてないだろうし。
 
 というわけで、今日はニュースのお知らせ。
 「蛍光灯の生産を2027年末までに終了へ LED照明の普及がさらに加速へ パナソニック」(FNNプライムオンライン)
 水銀規制のため(という名目)、2027末で、製造も輸出入も禁止だとか書いてある。
 アパートなんかどうすんだろうねえ、、器具タダで替えてくれんのかしら。
 うちの和室の丸形蛍光灯も本体スイッチが壊れてるんで取り替えたいんだけど、もう今はLED電球が切れたらその都度本体も取り替えるんだとさ。なにそれ。どうせ捨てるんじゃ選ぶ気にもならない。まあ、うちの場合はLEDより住人のほうが先に死ぬかもしれないけど。

 今年はサンマ安いって。
 「値段200分の1に! 店では1匹80円「大漁で大きい。オススメは刺身」北海道で“サンマ初水揚げ” 競りで1キロ626円! 2023年14万400円を大きく下回る」(北海道ニュースUHB)
 そりゃうれしい、イワシ並みじゃん。150円でも買ってあげよう。
 刺身がお薦めだってさ。しかし、脂っこくって1匹はむりだな。寿司飯で2ケなら美味しい。

 最後はうさばらし。
 岸田が総裁選出ないって。ニュース見てたらひとりでしゃべってた。
 それはいいけど、しばらく聞いてたら自画自賛が噴出。まるで売れない市井の社会学研究者のようじゃないかい? 売れない研究者は自分で褒めるしかないが、岸田なんぞおべんちゃらに囲まれてたくせにまだ足りずに自分におべんちゃらをいうのか。


 というわけで本日の題は、次回作の副題変更。
 といってもなんども変更するとみっともないから、こそっと。
 
 前がね、「― 体制内視点の経済学論理を突破するために」
 ちゅうんだけど、腰が引けてるね。ここは積極的にいかないと中身がわからないところ、
 しかして
     「― 個人内視点の学的体系のために」
 にしようかと。こそっとというのは、ほんとは「自己内視点」なんだけど、それだと遵法的な今の若人には「ただのわがままか」と思われそうなので、薄めといてどうか、という迷い。
 
 なんだ、「個人内視点」て、って「反体制内視点」のことで、なにも変わってはないんだけど、もう構成上ど~~んと打ち出そうかな、と思って。もう何回か書いてるけど、序論展開的には唯物史観変更からいっちゃおうか、と。
 で、この標題はなんだ? と。
 「客観的な歴史の必然法則」の必然というのは個人問題、と昔ここで言ったところ、そういえば偶然という奴はしらないな、と九鬼周造「偶然性の問題」を初めて読んだら、あ、関係ねえや、とわかったのでちょっと書いておこうと。
 

 さてそこで、必然性の反対は? 偶然性?
 ちがいます。
 必然性の反対語は、主体性です。
 九鬼周造京都帝大教授が、必然性の対語は偶然性だ、とかいうもんだから、迷惑この上ない。おかげで見当違いの論稿がネットを席巻する。なにが迷惑って、こっちも一言ぐらい言及しないといけないじゃないか。
 ほんとの相手は昔々のスピノザ様だよ、まだ本売ってるのがわけわかんないことだが。
 皆さまにおかれましては1950年以前に生まれた人間でスピノザを云々するやからは、まず、眉に唾をつけるのがよろしい。その人は時代を生き損なっている。
 「スピノザ? 普通」。なんちゅう1960年以降生まれなど問題外。まあそれは時代そのものだがや。
 
 元へ戻って、スピノザという奴は
 「スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの(理性の有)を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている」。(wikipedia)
 細かい内容はいいの。視点の問題だから。
 要するにおなじみ、「神の視点」。不可能だろうが可能だろうが、私は問うてみましょう、「そんなんこと誰が決めてんだ?」
 これは根本的な問いだから、皆様覚えておいてほしい。
 「誰が決めてんだ?
 答えは2通り。
 「神」。
 「いや決まってない」。
 
 さて、ここで、皆様が問いかけた人物は、まず1通り目、信仰者であれば「神」というし、白人無神論者であれば、「神はいないようでいて」とかの聞くのも無駄な口先論議を繰り広げる、結局何を言いたいのか。
 ついで2通り目、ユダヤ教徒マルクスやプロテスタントエンゲルスであれば、左翼におなじみの「必然性に追随する自由」論を繰り広げる、なんのことはない、「奴隷の自由」じゃ。
 
 というわけで、バカはほっといて、真実を論議しましょう。
 われわれ嘘つきに散々痛めつけられ殺された世代にあっては、必然性も偶然性も同じ穴のムジナです。
 必然性とはクリスチャンの論議であり、偶然性とは、それはどうにも肌に合わないという仏教徒の論理、どちらも身も心も売り払った奴隷の論理です。
 というと、神様や仏さまに失礼です。「俺らはそんなことはいってはいない。人間どもが勝手にこさえた話だ」。
 実際、預言者隈はそんなことはいわない。
 ま、それはおいて。
 
 生きる基準は「私」です。生きているのは誰か知らない、しかし「私」は日々存在している。世界? そんなものは知らない。しかしわたしには日々環境がある。かくて本来の哲学者、たとえばサルトルにとって必然性も偶然性もない。
 あるのは自己の自由。
 そして自己の投企。自己が自己の未来はこれと決めて、そこに自己を投げ込んでいく。
 それで必然性もない、といっちゃうところがただの哲学者ですが。
 
 ずっと昔書いたんですが(2008-06-08)、その頃の人たちはどうせもう生活に追われてるんでしょうね。
 つまり、行為主体にとって、私のなかの歴史は必然でなければ「ならない」。ならないとは世界に対する当為です。「世界は私のために当然そうならなければならない」。行為主体にとって、観照である「必然」など、「神様が設定くださるのを見て楽しむ「必然」など」、そもそも存在しません。机上の空論、あるいは神への責任転嫁にすぎません。
 世のインテリゲンチャの99.9%、あるいは西欧文化の信者たちは、もうこの根本的時点から「哲学体系」と、人間の思想体系とは異なることを知らなければならない。人間にとって必然は自己の不可分のものとして存在する。自己が見つけた一瞬先への動作です。この世界とは、その瞬間にできたばかりの他にはない確立されたトータルです。
 で、序論にいれようとしてるのですが、例によって長くてしつこくなるのがいや。 
 知ってるやつにはこのぐらい(以上)書かないといけないし、といって、ふつうの人たちには「何言ってんだ、余計なことを」ということになる。たしかに余計なことだからかえって難しい、そもそも長く書きゃあ高くなるし、読む人も減るし、ってそんなことを続けた30年。

 ところでさあ、九鬼氏、なぜクリスチャンが浄土宗で墓に入るのかね? 
 面白くありませんな。自己の自由は、あっちにもこっちにも自己をほおれる自由ではありません、自己の必然としての自己だけの自由ですぜ。
 
(p.s. どうでもいいからp.s. せっかく元の諸メモを次回作用に構成しても根がいい加減だからダブリの多いこと。悲しい。こればっかりはどう態度を修正したらいいのかわからない。でも、構成したのは目が悪い頃だからね、、、うそ。ダブリはいいけど、消えた中に大事なのはなかったのだろうか、、、
 いや、人生、そういうものです、昔っからそうさ。そんなことより今年は蚊が多い。耳元でうるさいぞ、お前。蚊も暑い東京地方になれたのかもね)。
 
(p.s.2 今日は月齢7月14日のはずが、台風一過の夜空ではお月様ずいぶんはんぱ。満腹まであと3日はかかりそうな。
 みんな「月なんか」ってバカにしてお供えもんしないんだよね。じつは地球のすべてを月が仕切ってるって知らないんだ。自分がバカだね。
 以上、オカルト隈でした。)

コメント
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