リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「場所的立場」雑記

2018-04-28 21:45:24 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。暖かく、あるいは暑く、なってきました。姉によると函館の裏山はニリンソウとかなんやらのお花畑だそうです。

 世間じゃわけのわからぬセレモニー(こういう言い方は日が経つと分からない。南北会談のこと)。私は人殺しの言うことなど爪の先ほども信じないので論評もありません。
 個人的にはここんとこ、ほんとよいことなし。こころ的にいっぱいいっぱいのため、ささいな話に乗る気もなく。
 
 というわけで本日は、オタクの極地、哲学論議です。しかも気遣いいっぱいいっぱいのため、少し雑然と放記。
 哲学なんてくだらない? いやまったくそのとおり。だいたい哲学的真実なんてものはそれ自体意味を持ちません。「われとはなんぞや」。知ったっておなかもふくれない。ただし、哲学的真実と言うものは、(間違った)イデオロギーに対する試金石にはなるのです。
 それが哲学上の主客二元論に対する西田哲学であり、道徳諸教義・前衛諸教義に対する実存主義の「選択論」です。前者は存在の形態として、後者は行為の必然的形態として、それぞれ『俺こそは真理』と喚きたてる宗教者の類いの、「国家主義や構造機能主義」あるいは「人間は人間であることによりこれをなさねばならない」といったイデオロギーを真実の名において否定します。
 もっとも西田哲学に哲学的真実があるということは、彼の「主体の存在形態の認識」のことのみを指すのであって、それにまつわる西田幾多郎の山と積まれた独り言を指すわけではありません。すなわち、「この哲学流派を自分(西田)の考えに取り入れるとどうだ」あるいは「自分の考えの基準からすればどうだ」、といった派生的な、彼の言説の95%を占める評論のことを指すわけではありません。といえばほとんど全否定に近い。しかしその帝国大学教授的営為によって弟子の哲学伝道師を何人も育てたのだから、それは私がとやかくいうことではない。私は大日本帝国の税金は払ってないからね。
 まあ本人も「自分は誰にも全然分かってもらっていない」といっていたそうですが、私だけは分かってあげてると思うのですが。
 
 ともかく、独創的な人間とは基本そういうものです。原理は一つ。わたしのように数個の原理を持っていてもよいが、要するに1セット。1セットの原理をどう表現していくか、ということです。それで一生は終わってしまう、それは時間の問題ではなく、1セットを1つしかない環境に当てはめた結果は、一セットの事実認識でできた頭脳しか生産できない、ということです。
 その割りになんでも知ってる私ですが。

 さて、「なんだつまらぬ哲学論議を」というところですが、ここまでの水面下の主題は「場所」問題です。西田の場所概念は正しいと述べたところ。ただ、そんなことをいってもしょうがない。しかししょうがあるのが生活者の場所観念です。以下は、生活者の「場所」観念についてです。ラテンアメリカ人と私は、理論活動の目的が異なる。当たり前か? どこが当たり前なのか? という点です。

 ここで、哲学的真実とイデオロギーとの間にあるのが社会科学的真理、すなわち行為の原理と原則です。哲学的真実とはなんら「理」ではない。ただの「本当のこと」に過ぎない。真理とは、論理が指し示す、生きている全員に当てはまる言説でなければならず、いかに反論できない真実であっても、個人の思い込みであってはならない。行為原則等は隈の社会学原理ではありますがが、これを承知していない人間も、経験的に行動原理を語ることができます。これが人生上の真理です。
 
 ここで場所的立場とは、西田哲学的には存在論だか認識論だかの問題でしょうが、世間的にはそうではありません。たとえば黒田寛一です。彼の如き論、それは彼に限らずヘーゲル哲学を信奉し続けてきた何百万の学生(研究者)諸氏を含めてのことですが、実際に現実に生きている人々が受け入れる問題は、存在論でも認識論でもありません。「私はここでこう生きているが、場所的に生きるというのはこのことをいっているのか?」です。
 西田の場所の問題はそういうものではない。「人は、真空の中には決していない。じゃあどこにいるのか、それは君の身体外の全体である」これが場所なのです。私は西田などまともに読んではいませんが、それにしてもそうなのです。それ以外に、真理にかかわる「場所」問題はないから、西田がバカでない限りはそうなのです。 
 生活者にそんなことは問題ではない。もちろん黒田の根拠も哲学的真実から派生しているのでしょうが、その言説が意味を持つイデオロギー世間、あるいは生徒にカネを貰って生きるアカデミー世間というものは、論理は「根拠」の拡大解釈でようやく存在しうるのです。 
 ではなんの問題か。世間で「場所的問題」と認識するものは、自己の色がべっとりとついて、自分が意味付与をし続けている「場所」、そうした限定的な場所なのです。運動者たる黒田派の諸君が思うのもそうではないか? 
 もう一度言っておきましょう。本来の「場所」とはそうではない。人が今まで感知していない、と認識する世界を含めて場所なのです。たとえば、2年後、友人との思い出話で「え! そうだったのか!」と思い至る世界、それが場所なのです。が、実際上、そんなものは西田エピゴーネンや黒田エピゴーネンには関知しない世界でしょうし、黒田本人に至っては、自分でも「そんなこたあねえ」と思いたがっていることでしょう。
 
 というわけで、そろそろ結論です。
 生活者にとって、あるいは倫理学にとって、あるいは人間にとって、問題なのは、存在論でも認識論でもない。場所的問題とは賞賛の範囲のことでなのです。
 それが人間の生活上独自に意義を持つのは、「その範囲は自分で変えられる」という点なのです。黒田派は自分の組織内についてその範囲を確定できる。同じプロレタリアートのためだからといって、決して敵対党派と同一の場所的立場に立ちはしない。「あいつらがどういおうと関係ない。俺らは俺らの場所的立場で闘うのだ。」そういうでしょう。
 問題は、賞賛の範囲なのです。
 ラテンアメリカ人民と、日本プロレタリアートは、場所的立場が異なる。当然か? 当然ではありません。存在論的に、あるいは認識論的には「同じ場所」なのです。
 しかし、生活者としては異なる。現実にラテンアメリカ人と日本人が同じテーマで闘うなどありうるだろうか? いやありえない。まあ反核問題や反米闘争のようなでかすぎるテーマは別として。しかし、もう一度言いますが、ラテンアメリカ人と日本人は、存在論的に、あるいは認識論的には「同じ場所」なのです。
 
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