リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

イデオロギーからの自由(その1)

2008-09-27 22:26:45 | 社会学の基礎概念
ごぶさたしとります。ちょっと夏休みをずらして旅行してまして。
更新もしないのに訪問客の数が私の友達の数よりも多い。
どなた様か知りませんがありがたいことです。
人って、結局のところ食べて寝るだけのことだから、人の獲得できるものって、その合間合間にどれだけ他の人と関わったかということ(だけ)なんですね。

なんて殊勝なことをいうにしちゃ友達甲斐がないとかいわれそうですが、目が悪くてよく見えなくて。見えないんで挨拶はご遠慮。その上中高年で、頭も悪くなってきたし。

  ま、とにかく、コメントととかいただけると更新も多くなりそうですが。

というわけで、今回はイデオロギー。
ネットでくるくるしてますと、世間ではびっくりするようなことが起きてるんだな、と思います。あきれかえる変節を前にして、なんで、私は生まれたままなの?  ま、「本当に」変節かどうかはどうでもいいですけどね。

まずは、「イデオロギー」とは現実の中では何か。

世の中、「なんとか主義」を生きている、ように見える人っているじゃないですか。まあ、私がどうかは別として。
で、そういうのが「イデオロギー」だ、というと現実的にはかなり違う。

なんていうと、定義を勝手に変えるなと、かなり怒られるかなあ。
でも「思想とイデオロギーは、はっきり分けたほうがいいんじゃないか」っていうのが、一つの結論で。
思想は、個人が本心から主義として表現したがっている、と自分で思っているもの。
イデオロギーは、個人が本心であるなしに関わらず、他人に表現して同調させようと思っている事柄。
こんなふうに分けたほうが、現実が理解しやすいんではないか、と。

たとえば、左翼組織の人たち、この人たちは自分の思想があると自分が思って人にそれを広めようとしています。
その動因、個人がなんでそんなことをするのかという理由は、現状が彼に運ぶ優越と賞賛、というわけです。
なので、そういう人たちの8割は周囲の支えがなくなればそこまでの人たち。組織の幹部も含めて。誰も褒めてくれなくなればもっとウケがよいところへ回る。
残りの2割といえば、別の1割の人間が、理論を遂行することに優越と賞賛をつかむ。残りの1割の人間が、それを箱にしまって別の人生を生きていく。

この8割やら2割やら、という話は社会科学外の事情なんで、興味はありません。まあ、心理学でも性格学でもいいけど。そういうのは、だからどうするという因果関係には直接には結びつかない。人間てそういうものだ、っていってしまうとわかりやすいだけの事柄。
これは別にバカにしているわけではなくて、経験値ですね。たとえば70年闘争に参加したものがみな「本当に思想を生きる人間」だとしたら、今頃は日本は世界でもまれな理想主義国家になっている。みんな中高年で社会の重鎮だからね。

(注)理想的国家じゃないですよ。単に理想を追うだけの経済的には三流国家。
   ただし、腐った米を仲間に食わせるような奴はいやしないだろうけど。
   ま、幸か、不幸か日本はそうではない。「どうせ人間なんてそんなもんさ」と思っていると実際そうなる。
   そういうのが社会における実験というやつ。まあ、心淋しい経験値だけど。

さて、「イデオロギー」というのは、それと少し違って、いわば、人間の利害のみを表現している。

人は、何かを発言するときにイデオロギーを実行しているわけです。
それ以前に何を個人的に考えていてもそれはイデオロギーではなく、幾つもある考え方のひとつをなぶっているにすぎない。
では、彼は何を発言しているのか。
組織の代表は、組織大会では、(こんなことウソだけど、とりあえずこう言っとくしかないな)と考えながら、『内乱を作りだせ!』とかと運動方針を発言する。これがイデオロギーです。それは自分の考えではなく、状況の中で発言せざるを得ない表現です。
あるいは大企業の代表は、マスコミ記者を前にして、(オレは本当は社民党に投票してるんだけどな)と思いながら、『もっと自由競争を進めないと、日本は持ちませんよ』とか発言する。
これがイデオロギーです。
日常、どこにでもあるイデオロギー形態。
これを聞いた他人は、「あの左翼指導者はゴリゴリの過激派だ」とか「あの経営者は資本主義が姿を変えたような奴だ」と思う。それを否定する要素などありません。
大会後や記者会見後に、楽屋裏で「あんなこといったけどホントですか?」なんて聞いても、「なんだてめえ、オレがウソをついてるとでもいうのか!(よくわかったじゃねえか)」と怒鳴られるだけです。
でも、本人は実は(内乱なんて起きるはずねえだろ。)と思い、(競争もやりすぎたら誰か死ぬぜ)と思っている。

こういう表現と思想とは、分けたほうがいいって分かるでしょ?
人は頭の中で何を考えていても、表現することでいくらでも右翼になれるし左翼にもなれる。そして他人にとっては表現されたことの方が、本当の彼なのです。

人間は毎日そうやって生きている。自由業者と学者以外は、少なくとも。主婦でさえ、子供たちには育児イデオロギーを告げる。

ここまでは前段。
ちょっと切りましょうか。
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