リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

守れなかったのだろう

2015-03-15 17:53:54 | その他
 こんにちは。ここのところまた働いてますが、毎日日曜の累積のせいか体力低下、今日は休みですが、ねむい。
 世間では北陸新幹線でおめでたのもよう。まあさびれた高岡とかが活性化すればご同慶ですが、とりあえず「ほくほく線」の需要低落が心配。十日町とか松代(まつだい)とか。
 北陸観光たって広すぎて、というかアイテムがなくて、1泊や2泊じゃどこにもいけないんだよね、たとえレンタカー使っても。まあ、乗り捨てレンタカーでどうか、というところ。
 
 さて、というわけで勤務仕事で一日が過ぎると、「注」になる本よりも気晴らしの資料が欲しくなるから不思議。なにしろアルバイトでつまんないしね。正規でない方でやりたいことの少ない方は、やはり正社員のほうがいいですよ、世界にメリハリがつきます。
 で、気晴らしの1、四方田犬彦の「ハイスクール1968」。懐かしい時代だこと。
 それにしても記憶力のいいやつだな、うらやましい能力。わたしなんざこうゆう資料を見ないと何も思い出さない、と思ったらそうとう創作のもよう。そもそも本人の感想だから、書かれた周りの人たちから不平不満が噴出したそうで。ネットで見たら、四方田に悪口をいわれた当時のセクト員が偉そうにブーたれてました。わたしなど、過去の栄光にすがって偉そうにしてる転向者よりも、大法螺吹きでもまじめな対応をして死んでいく人間のほうがましだと思うところ。
 まあわたしなど根も葉もまじめなので、他人の過去を世間に広める気にはならないですが、でも、なつかしいことを書いてもらうのは思い出しとして好ましいことです。
 
 その思い出しの一種で、小林昇の取り巻きが書いた「回想小林昇」。昔の経済学史学者で、「経済史学? なにそれ」ってお思いのことでしょうし、実際若い方はべつに知らなくてよい方ですが、私どもの年代では「重商主義」といえば、リスト=小林というセットで懐かしい。今じゃ、「リストは重商主義ではない」とかなんとかかんとか。部外者としてはどっちでもいいんですが。
 どっちでもいいというのは、ようするに「今」の話がためにする議論、ていう意味です。重商主義からナショナリズムを取り出し、リスト先生もいっているように、といいたいわけね。論者の否定したがる「重商主義」というのは昔からヌエのようなものだったのですが、古めかしい名前もかっこわるいしね。
 
 そんなことはどうでもよくて。
 今日のテーマは先週の続きとしての小林昇。いわば、守るべき人を守れなかった人の「苦しみ」がここにあるようです。
 守るひともなくうろうろするのと、守る人がいると偉そうにいうのと、そうした次元以前に、戦地へやられ、守れなかった、あるいは反責任さえあるという自分の地点を死ぬまで固守した、という。そうした感情をどう自分の中で位置させるか、それが思想者の根底であり、小林という人は、思想など持っていなくともそれ自身で思想者であるのは、前述のブーたれる元セクト員と比較すればわかります。
 一種、感心しました。わたし以外には誰も読み取れないでしょうけどね。
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