リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

歳と思考様式

2013-04-06 21:00:11 | 断片
 こんばんは。春の嵐、九州は通り過ぎましたか。わたしとこは戦々恐々。さいわい今日明日休みなんで、「恐」の「スーツ濡れ」はスルーできますが、嵐の音は嫌いです。
 「風が嫌いなんて変」 とかじゃなくて、風は好きですよ、海岸の堤防道の手すりにつかまっているなら。しかし、マンションの家の嵐は一瞬先の未来がどうなるか不明なのでいや。

 とかなんとか、「てやんでえ、今日は書かないっていったじゃねえか、どの面下げて、、、」ってしらんぷり。
 実は勉強が進んでない代わりの埋草。そう心の狭いことをいわないで。

 さて、本日は研究志向人間あて。「勉強人間も年代でやれることが違うんだよなあ、、、」 という感想。
 文系では「10年やれば専門家だ、教授には負けない、勝てるとは言わないが」という言葉がありますね、そりゃたしかにおっしゃる通り。10年て、結局30歳ね。
 とりあえず30歳で専門家になって、そこで確立した自分の道を「深める」。掘って掘って掘り尽くすわけですな。掘るといっても中には横に掘る人もいて、まあそれはそれで個性として。
 で、40歳。
 40歳というのは理系では一区切り。数学やらなんやらの純粋理論では、そこが限界的節目にも扱われるようで。
 
 しかし、それはそれ。そんなのが理論の確立なわきゃあないよな、そりゃ「お前、もういいからジャマ。のいとれ」、というだけの低レベルなドングリ同士の措置だな、と思って。
 文系でも研究ってそういうもんです。
 43歳まではしつこく新しい理論に食いついていきますが、それ以降は、「だから人生どうなんだ」、という次元に入る。いいかえれば「こういう私の理論は全体の中でどうなんだ」、という発想に転換される、ということですね。ちょうど頭もボケてきているから、物事は単純化され図式化される。
 その結果、50代の中高年教授は、「あの人はほんとうに分かっている」 と評される。それは若い衆から見れば穴だらけの「理論」ですが、しかし実はその穴は実用的には「わざと開いている」 穴に過ぎない。
 「わざと」なんて若い人には信じられない、「ただのバカだろ」 と思うでしょうが、しかしそれはそんなにウソではない、というのが人生奥深いところです。

 と、まあ、以上はお風呂で髪を洗っているときに思いついただけですが。ちょっといっておけば、思いつきなんて必ずそんな場面です。中高年ではそんなの日常茶飯事。若い研究者の方も見習って、1日中いつもいつも考えてなきゃいけませんぜ。もっともわれわれ中高年にとっては一どきには1つのことしか考えられないせいですが。

 以上、もとはといえば、マルクス『剰余価値学説史』をめくったせいで。マルクスってバカじゃないけど、ほんとうにどうしようもない人だったんだなあ、なんて思うだけの成果。まあ、なまけものの開き直りではあります。

コメント
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