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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

イムジン河

2010-03-15 22:12:07 | 歴史への視角
 こんばんは。今日も寒くて、という言葉に賛同してくれる人は、東京地方じゃいませんよね。
 私の行動実態を知ってる人はなおさらですが、、、ああ寒かった。

 さて、こうゆう理屈こねて生きてる稼業って、どうしても身内攻撃になりやすいんですよね。つぶれちまえばいい自民党でなく社民党の悪口を言ったりね。自民党の悪口なんて、だれでもいえるだろ、私が出る幕じゃない、みたいな感覚で。
 まあ、そのへんは、読む人に大人になってもらって。今日は、反北朝鮮派に大人になってもらいましょう。

 私儀、考えてないときは歌を歌っているというきりぎりす。
 ふと、風呂に入るとき、イムジン河(北朝鮮承認版)が口に出てまして、1、2週前に朝日新聞で書いてましたが、こっちのほうがフォーククルーセダーズ版より明るいんですね。でもフォークル版の方がきれいだったよな、と、松山猛:加藤和彦編曲のイムジン河を口ずさんだところ、もう北朝鮮版は頭に浮かばない。
 おそるべし加藤:松山。てわけでもないけど、やはり日本版のほうが名曲です。

 とはいえ、その頃対抗した北朝鮮版は明るく、、、それにしても一度フォークル版が湧くと、思い出すのが大変だ、えーーと、、、
「風よ、川面をかけてゆけ、春風よ、とどけよ」(南朝鮮にも自由を!)
 とゆうように、北朝鮮民衆も歌えたわけです。

 1957年(というイムジン河・歌曲作成時)、北朝鮮は、そこそこ未来志向で、民衆には理想と自信があった。いまどきの独裁体制でもなく、アメリカ軍と結託して家族類縁を殺した売国奴(韓国のことです)に目に物見せてくれようか、みたいなとこで。
 
 さてと、何をいいたいかというと、上記が本当かどうかは別として、そういう民衆の視点を抜きにして、アナーキストはおしゃべりしてはいけない。ということで。
 もちろん、アナーキスト本人はしませんが、無政府主義者とはそういう人々のことだ、といことを普通の人に話しておくというか。
 独裁は無政府主義者の敵だけれど、かといってそこで生きている人間、民衆の、その生きているプライドを忘れれば、「人殺し」 ブッシュと 「何一つ」、髪の毛一筋、変わらない、ということです。違いは、権力を握っていないただの市井人というだけ。簡単にいって、あなたも世が世なれば北朝鮮で生きている。そこで、運良く食えてるか運悪く農村で飢えているかは別として、いくら飢えていても他国に侵略されるよりましだと思いませんか? ましです。 それを忘れて、圧倒的な軍事力を持つ者が言いたいことをいってはいけない。(わたしなど、酒飲み話では言いますが)
 
 さらに、いって、拉致で怒るのは当然至極ですが、それでも違和感は、拉致された人間は、仮に生きているとすれば、今までどうにかこうにかして生きてきたんだ、ということです。なんか、反対派ってそれを忘れてないかなあ、っていうか、想うような人は100人に1人のような。端的に言えば、恐ろしくてそんなやつらの前に出ていけない、というか。前に出て行くにはこの30年を捨て去った顔で現れなければならない。
 こういうと、奪還運動に差し障るから大きな声では言いませんが、絶対自由主義者とは、拉致された人間がどうやって今生きているのか、を忘れてない人間のことです。親の気持ちがどうとか、って、そうじゃない。評論家になっちゃダメですよ。生きている人間は、私、あなた、彼、彼女、そうした1人だけです。
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政治に調整はいらない

2010-03-07 21:07:17 | 歴史への視角
こんばんは。いやこの題は不正確で、極左に調整はいらないとか、野党であるべき党派が、一人前に調整づらするな、とか。
 どうにせよ、ほんとの主題は、また違うので。
 
 ほんとの主題?
 
 さて、感情と論理は、どちらが重要?
 隈のような科学主義者は、論理が重要だろう、と思ったら間違い。
 昔、ヘーゲルは、人間が無反省に現実を睥睨(へいげい・たかをくくって偉そうに見る)することを、「悟性」と呼んで諌めました。
 そうじゃないんだって。人は、感情を忘れたりはしない。神もそれはご存知だ.かくして、世界というのは、悟性ではなく、理性にのっとって進む。

 飛びますね。
 で、テーマの入り口ですが、
 社民党の党首が、沖縄基地問題で民主党党首と検討を重ねたそうな。
 
 だからそうじゃないんだってば。ああた、検討して妥当な線を見出そうとしたんでしょ?
 (ほら、最初のコメンターさんが、党首のファンだから、私は遠慮しています。
  そりゃ、当然払う敬意ってもんです。コメンターさんへの、ですが)
 世の中にフィットすることは、すべて悟性の問題、知恵薄き人間の問題なのです。
 ほっておけば、全ての考えは「現在がどうだから」、という考えを生む。
 あなたも私も、現在はこうゆう状況だから、「こうするしかないじゃないか」、そう考えて満足する、それは知性ある人間、誰もがやることだ。
 さてはて、それで現在が変えられるのか?

 しかして、それは、ヘーゲル的にはバカの仕業であり、われわれ的には資本主義の流れに乗っている、それだけの時間経過に過ぎない。
 そんなものに社民党党首が時間を費やす必要などありはしない。どっかの中立的な国家官僚(そんなものは日本に限ってはざらにいるが) が一人居れば済む仕業だ。

 そうじゃないの。
 社会にとって妥当な、なあなあな「検討」など、自民党で十分なの。
 妥当ではない、それをすると東京都民が困る、大阪府民が困る、神奈川県民が困る、到底実現不可能な、しかし、沖縄県民にすればそれが、東京や大阪や神奈川の工場設備と引き換えに欲しいものなのです。

 そんなの実現不可能だって? そう、そういってくれる人がいないと、この話が続きません。
 そんなのは日本の現実で実現不可能なのです。
 しかし、それは実現させなければならない。
 「何言ってんだよ、できないって言ってるじゃないかよ」 って。
 それが、ようやく、始めの一歩なのです。
 それが矛盾というものです。

 この実現させなければならない矛盾を引き受ける人間が持たなければならないものが、第1に、感情です。
 「ヤマトンチュウ許してなるものか」「先祖の恨みを覚えよ」 何でもいいのですが、まず人間の気持ち、これがないなら問題など生じません。でも問題は生じている、この感情を分かった人間は、ついで、この感情を持続させなければならない。このつまんない話が、世間の人は知らない、『重要な』課題なのです。
 その次に、矛盾といわれようがこれは解決しなければならない。
 つまり、第2に、この気持ちの実現方法の認識です。この第2をつかさどるものが、ヘーゲルにとっては理性です。
 じゃあ、どうしたらいいの? 実はヘーゲルにはそんな悩みはなかったが、ヘーゲル以後、しかし、どうやってそんな世ができるのか、弟子たちが考えつづけた、これをヘーゲル左派といいます。
 いつか、そんな世が来るのだ、消え入りそうな感情を支えていくもの、それが歴史の希望としてある。そこでヘーゲル左派の人々が提出しつづけたのが、「人間」なのでした。
 へーゲリアンは、神の変わりに人間を据えた。それはこういうことです。

 (それがわからない自称哲学者が、いくらヘーゲルのドイツ語を訳してみたところで、何の意義もありはしません。「哲学者」なんて名前は返上しな。)

 中間が長い。
 かくて、世の中を変えたい人間は、調整してはならない。
 悲しみや苦しみを知る人間に大切なものは、否定する感情なのだ。
 これを忘れたら、それは国家官僚だ。
 (官僚をけなしちゃあないぜ。逆に、官僚は食うための所作だが、政治家は自分で採りつづけている道だ、というのっぴきならない事情があるだろ、といっている)

 (この辺で、切るけど、感情とか信念なんて、実は人間にはないんだよね。
  じゃあなにがあるんだ? そっから先は、行為理論の出番なんだよね)


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適度ななやみ

2010-02-07 21:19:25 | 歴史への視角
 こんばんは。寒いですねえ。
 東京地方、3日前は雪で。(5日前かも、、、)

 夜中、窓から見る雪景色は、例外なくきれいなものです。音が消えて樹々の枝に雪が積もってねえ、、、
 スキーは好きですが、雪国地方ではそうもいえないんでしょうねえ、とにかく中高年だと寒いし。
 そのうえ、このところの風潮で、街路灯も橙色にしたがるやつがいて。橙色の雪を見て何も拒否感を感じないなど人間の腐敗ですよね。
 ま、ナイターゲレンデで育った人もいるでしょうからあまりいわない。

 今日は懸案事件がやっと解決して。
 といってもだれも本当には困らない案件、被害者は当事者の私だけだと困るほうも気軽で。とはいえ,解決するとほっとします。

 私など労働仕事の懸案で、こんな(ってどんな?)ような子供だましの案件で気を使うのは初めてですが、どんなささいな案件であれ、解決のつく案件は、ないよりもあったほうがよいような。生きてるって気がしますよね。(他の仕事を邪魔しなきゃですが)
 悟りなんか開いて泰然自若したら、なんで生きてきたかわかりゃしませんよね。死ぬために生きてきたようなもんで、そりゃ、生き返りを願うしかないですね。何でそう思わないんですかねえ、もちろん、痛みや苦しみで苦しんでいる人は泰然自若を願うしかない、けど、痛みや苦しみの中の人はそんなことはできやしない。できるのは安全なぼんさんだけ。

 変すぎるよねえ、、、

 って前の続きになってしまったか。ま、不信感の広がりを止める理由が生じない人たちなんだよね。どなたか、現代人で、立派なぼんさんを知ってますか? 30年前はいた気がするけどね。そりゃ、どこの宗教でも主義主張でも一緒かもしれないね。
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僧侶的改革意思の射程

2010-02-01 21:21:31 | 歴史への視角
 こんばんは。今日は事情で仕事ができず、先が思いやられる宵。

 朝日新聞の夕刊に岡山巧という僧侶が(反原発の運動をしながら)話していた言葉、
『善人が偽りの世を作る』
(この前も書きましたが,私はネットや著作書以外は,言葉を引用しません。どうせ記者の創作ですから)
 おっしゃるとおりで。
 しかし、そういうボンさんご自身もおんなじで。要するに今日の題は
「ぼんさんが、こうしようと考えることが、社会にどこまで有益か」
という題で。

 善人が偽りの世を作るのはおっしゃるとおりですが、じゃあ、どうしたらよいねん?
 善人でさえダメなのに悪人にできるのか?
 ボンさんなんざ、することといえば、他人に改心しか勧めないのだろ? 他になにしようちゅうねん?

 わかる? お若い方々。25過ぎたらみんなうそつきやねん。
 なんのかんのいっても何一つやる気なんかないねん。
 したいのは自分の思いを他人にいうことだけやねん。

 お前も一緒だろ? ですか?
 一緒でいいんですよ。人間,善人は善人。ボンさんでも自称社会学研究者でも。おなじくうそつきでいいかげんで。
 しかしですね、しかし、その一緒の心を社会に結実させるにはどうしたらいいのか,それを考えろ、ってことです。
 私は、彼について、「なんの実効性のないことを声高にいいくさって、ざけんな、アホウ」と思う(注:座禅や祈りの類のことです)。向こうでも(私のことを)そう思うなら、どこがアホウかいってみろ、ということです。
 再度言いますが、おそらく私より向こうのほうが人格は良いし,拷問にも耐えられる、まあ宮本顕治共産党元議長のような立派な人なのでしょう、で,君は何をしようとするねん? 反原発の代表者になればよいんかい?

 とね、ここまでは一区切り。
 そんな人でも、彼のように善人でも私のように悪人でも、反原発運動はあくまで誰かが支えてしか動かない。おそらく、意思の強い彼のような人がそれを動かしていく。

 運動というのは,思想でも宗教でもない。ただの人間の気持ちなのです。
 ということを宗教家にではなく、社会運動活動家の卵の方たちに申し上げました。
   年寄りに言う気はねえよ。

               ↓あほんだらなエロコメばかり、、、どこでみつけるんだろう
コメント (1)
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生活という個別状況

2010-01-24 10:54:45 | 歴史への視角
 こんにちは。
 東京地方、今日も青々とした空で、サッシのこっちは温室。でも、そろそろ部屋を照らす日差しが短くて。

 昨日の新聞によると、広島電鉄の労組が、「契約社員を全員正社員化し、賃金も引き上げて正社員と一本化することで会社側と合意した」「一部の正社員は賃下げになる」そうです。
 すごいねえ、、、よくやれたもんだ、いくら条件がそろってたってねえ。労組指導者のやる気がすごいねえ、、、
 片方で給料上がったって片方が下がりゃおんなじじゃないか、という説もあるでしょうが、(生活の安定は言うに及ばず)アルバイト・派遣社員は、気持ちだけで疎外感あるよね。出向のとき(でさえ)そう思ったですよ。これで2,3ヶ月ごとに通勤先変えられたらたまんないな、みたいな。人間、一人じゃないほうがだんぜんいいですよ。とくに、中年過ぎは。
 しかし、方針のよしあしとかじゃなくて、佐古正明さんとかいう委員長、突っ張るだけで大変だよねえ。河西宏祐(教授)さんは人がいいから褒めてたけど、実際「そんなのできんの!」みたいな驚きあるよね。

 さて、よかったよかった、なんて終わってると、このブログの意味ないですね。
 一応、原則的な「注」をつけておきます。

1 労組は資本主義下で労働者の労働条件を良くするためのものだから、トータル変わんないよ、みたいな話であっても素直に肯定していいんです。何を言ってるかというと、そんなものが労働運動か、という説が出るからね。労働運動でないの。これは労組運動。違うの。
 そうゆう場面、局面での努力の質の違いがわからない人って、結局、生活者だったことのない人だと思うね。ヒューマニストが営利企業に勤めていいのか、って類の話さ。

2 でも、労働運動じゃないんだよね。こういうのは、先進資本主義国日本の、賃金の相対的低下の1現象形態にすぎない。後進諸国で汗水たらしてる労働者と、トータルとしての労働価値が均一化していく過程です。この現象形態はいろいろで、まずは、労働者も二極分解するか、資本家と労働者の対立にとどまるか、という違いがある。そういう客観的条件の中で、会社構成員として、或る状態を選ぶのが労組運動。
 しかし、そんなもので満足していてはいけない、と叫ぶのが労働運動です。別に個別労組で労働運動をしてはいけないとは思わないけどね。できるところは、それを幸せに思ってやったらいいんですよ。個別の状況はいろいろですから。

3 じゃあ、連合(という労組組織)で方針にしてもいいか、というと、これがまた違う。労組組織には、本来、状況なんてありゃしないんだから。労組連合組織は労働者運動をするための組織です。かくて、方針は原則的になる、革命的でなくともね。契約社員は正社員にしろ、と。一方、高級社員の給料は高給化してるぞ、累進税率を元に戻せ。首切り大企業の利益配当を許すな、、、ダブついてる金は国で吸い上げて失業者に使え。共産党がよくいってるようなもんで。そういえないのは、連合の状況は、「本来」ではなくて存在する、つまり御用組合だという。これも共産党説と一緒。誰でも知ってることだし。

 今日のためになるブログ、趣旨は、あたりまえの説をお伝えすることではなくて、「個別と全体を一緒にしないこと」、でした。全体社会は、全体の価値で動きます。基本の視座(立ち位置っていいますね)さえぶれなければ、運動というのはなんでもオッケーなのです。 

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夫婦別姓論

2010-01-11 10:04:53 | 歴史への視角
 おはようございます、昨日はばたばたしてて書かなかったので時間つなぎで。

 今朝のyahooによると、
「民主党が野党時代に繰り返し議員立法で国会に提出した民法改正案は、兄弟姉妹で姓が異なることを認めていた。」(が、統一する案にする、と)
 だって、わけわかんねえやつら。

 前からおみえの方ですと、ここのブログには別姓論を期待されるかと思いますが、あにはからんや。私は、「なんのための家族だい」、説です。他人たちと違う象徴が同姓だからね。別なら家族なんてやめたらいいじゃん。もちろん、私は家族をやめるのにはこだわりませんよ。これでもアナーキストで。
 
 なんてゆうと、おまえは家制度を容認するか、とかまたわけのわからんことを言われたりします。
 
 わけのわからぬ自称進歩派。
 自分の姓、って「自分の家の」姓じゃねえか。なにを偉そうに擁護すんだよ。
 以後綿々と、自分の親のどっちかの姓を背負って子々孫々いくだけだろ。
 わけわかんねえ。右翼同士でやってろよ、みたいな論議さ。
 
 私は昔っから「名前くらい自分で作れ」派です。一応、アナーキスト。
 自分たちで一つの名前作って、そうして生きていけばいいだろ。
 それになんの文句があるんだ。
 
 でもそんなのいやなんだよね、自称進歩派。
 ほんとは進歩派でもなんでもないんだ。ただ、自分のことだけ考えてる人々。
 自分の名前だけがかわいいから変えたくないの。「家族って何? 我慢するのなんてゴメンよ。」
 そういうのとは付き合う気なし。
 
 とはいえ、もしかしてそんな右翼同士の話も、家制度的にはある種の楔になるかもしれないしね。だから私は黙ってるの。
 
    って、言っちゃったね。
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悲しい大審問官

2009-12-13 20:49:49 | 歴史への視角
 本日は、埴谷雄高を見て。
 ご存じないですかね、昔はアナーキストと呼ばれた一時期もあったのですが。
 私は、つまらないので読んだことはありませんでした。というのもちょっと矛盾な。

 このごろ行きつけにしてる図書館はいろんな古い本がありまして、彼氏の思想全集という1冊本もありました。

 で、大審問官です。埴谷の大審問官と、覚えてもらって。
 私が中学生の頃にはちょっと流行りまして、私も高校1年生のときにきちんと炬燵で考慮したものです。

 趣旨は、1人死ねば1万人助かるときに、じゃあ、1人殺すか、という話です。
 ま、これじゃ不満な人はきちんと読んでくださいませ。昔の人はよく論議しております。(カラマーゾフ本体には、テーマも2,3、別のもあります)

 さて、本題。私も社会学を30年余続けておりますので、そこらの文学者がいうようなことはいいやしません。

 40歳以上の人は半ばお分かりの基礎があるとお思いますが、この問題提起は変ですよね。
 世間というのはそういうものではない。
 毎日毎日、1人を殺さなくては我々自身が生きていけない。これって毎日の話だぜ。
 世間というのはそういうものです。

 埴谷のような戦中世代の、中途半端に「殺す」ということを知っているとかえって分からない。もちろん私は、戦中世代でも某々過激派sでもありませんので具体的に流れる血は見たことがない、見たことがなくとも、毎日はそういうものです。
 我々は、物理的にヤッパやパチンコは手には持たないが、他人は死んでもいいと思わなければ生きていけない。
 それは、別に、資本主義社会に生きているからではなく、封建社会だってそうだった。
 いくら農村が助け合いの世界だ、などと口先のことを言ってみても、いったん飢饉になれば翌年の春は具体的に物乞いの最下層農民の鼻先で雨戸にしんばり棒をかけなければ生きていくことなどできはしなかった。

 それが支配社会というものです。

 あんだって? 一人死ねば1万人助かるって? 上等じゃねえか。
 上等です。
 これが支配者に限らず、被支配者の気持ちでなくてなに。誰が好きで飢餓で死にそうな人間の目の前で雨戸を閉めて拒否できるか。
 そんなやつは、人間の1割しかいない。

 じゃあ、こんな判断でよいか。
 よくはない。
 よくはなくとも、現実ではこれが一番よい。人は1人殺してやっと家族が生きていけるだけだ。支配者たりともそうなのだ。それを1人で1万人だって? すごい。1万人で1億人が救われる。(注:この死ぬべき1人には、自分自身も含めます)
 そんなものを、本気で秤にかけることができる、しかも、その答えが反支配階級の倫理となると幻想することができる、これが

「プチブル」

 というものです。
 悲しや、ドフトエフスキー。
 彼もアナーキストと呼ばれた一時期がありましたが、単なるプチブルです。

 世間の常識とは世間で生きている人間の悲しみまで詰っているものです。
 これにたてつくのは、正しいことなのだけれども、空語である。

 支配階級の思想は、世の中で支配的な思想なのだ。これにはたくさんの意味がある。
 これもその一つの意味です。


   そして、しかし、空語でも言い続けなければいけないことがある。
   革命の思想とはくだらない空語ばかりだが、それが言える人間はそれを言い続けなければ、みながクズになってしまうのです。
   そうでなくて、誰が反撃の刃を持てる?

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他人(極左)のせいはやめてね

2009-11-14 21:58:15 | 歴史への視角
 これはシンプル、率直な題を書いてしまった。

 世間では民主党が事業予算査定をしてるようで。
 かんしんかんしん。誰の案かは知りませんが無謀なところがよいですね。
 このぐらいしなきゃ予算なんざ減リもしません。
 予算はみんなの生活がかかってますから、頭のよい人間がやったらなんも減りゃしませんからね。
 ほんと、イヤミじゃなくて感心しました。
   もちろん、これで決めたら単なるバカですけどね。

 ということで、国家予算とは。
 誰もいいませんが、資本主義の国家財政は以下のように成り立っています。

0 徴税費(=徴税費)
1 国家統合費(=天皇費、華族費、その他議員等費)
2 国力育成経費(=軍事費、道路修復費、義務教育費)
3 社会保障費(=年金費、生活保護費、健康保険費)
4 不満排除費(=経済支援費、文化費)
5 政策誘導補助金(=法人税減税費)
 このうち、必須なのが0から3までです。

 誰も言わないのはそれが間違っているからではなく、資本主義国では、科学的社会主義者が大学教授等になれないからです。
 おかげさまで私のテリトリーは広がりすぎで、社会学、経済学、政治学に行政学、おまけに財政学と来た日には、死ぬときに「大風呂敷」といわれてしまいます。
   なんといわれようがかまいませんけどね。他に誰もやらなければ自分でやるしかないし。

 そんで、民主党のアイデアは買いますが、ただねえ、こういうのはほっとくとオブラートなくなっちゃうよん、それでいいのかね、みたいな老婆心で。
 こっちはシンプルに資本主義的財政学が立証できてうれしいところですが。

 つまりですね、同じ教育費でも、必要なのは、義務教育の校舎の保全費(=建ってりゃいい)だけなんですよ。地震が起きて潰れようが、それは潰れてからの話。あるいは、大学費なんかなくていい。高等教育がなきゃ国が潰れる? ほっといたって金持ちは子供を大学にやりますからね。
 てな話を続けていくと、何も残んないんですね。金額的には少ない(たかだか数兆)が、政策として名前がつく9割以上は、不満排除か、政策誘導金ですから、いくらでも切れてしまいます。(p.s.地方交付税や義務教育費等の中身まで論議すりゃ、軽く倍)
 さてそれで、残ったもので、日本人民の共同性が保たれるかというと、保たれやせんのですよ(p.s.資本家も日本人民とすれば)。
 いいですけどね、われわれ不穏分子としては。
 そんな欺瞞的な統合因子など消えてしまえ。資本家は資本家。被搾取労働者はそんなやつらとは関係ないのだ。
    なんてことがバレていいのかねえ、、、。
 わたしゃ、喜こんでますぜ。
 でもね、こういうのは欺瞞じゃなくて、ただの認知様式なんですよ。
 後進諸国家がある限り、先進国人民は資本家と協同歩調を取れる。
 それを破るときは、たくさんの血が流れますぜ。
   それを自分たちで破っておいてわれわれ不穏分子のせいにされたくないですね。第2資本家の手先さん。
   
     なんつっても、わかんねえよな。口舌の徒らには。

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2大政党化

2009-11-03 21:33:19 | 歴史への視角
こんばんは。
キンモクセイを誉めた秋の始まりも束の間
もう木枯らし1号。
木枯らしといえば冬じゃんけ。
  秋も満喫しないうちに冬になってしまいました。
 
 、、、33%ウソ
 私は秋は満喫しまして。
 秋とは、涼しくて頭の動く日々、私の仕事、83%終わりました。次回の本、6章のうち、5章を終わったところです。大変気分がよろしい。(P.S.違った、7章のうち6章、86%。いい加減だねえ)
 これだけだと50%ウソなところですが、冬のはずがない11月初旬 (これでさらにウソ率が上がるはずのところ) 、なんか、世間でやけに枯葉が多くありませんか?
 当家 (マンション) のまわりの桜の葉なんかも赤くなる前にずいぶん枯れ果てて強風で散ってしまって、そういえば当社の近くのイチョウも枯れかかっております。で、冬です。ま、ウソかね。
  でも枯葉盛りの中高年のいないところで紅葉見たいなあ、、、いえいえ、私も御同類。
 
 なんて、世間話。
 
 今日、テレビで海江田かなんかを3分ほど見てて思ったのですが、日本て、いつの間かにか、2大政党制になってしまいましたよね。
 いや、政党1っこじゃん、ていう冗談は別として。
 まことに不見識の至り。私ってば、2大政党化って10年かかんのかと思っておりました。投票率上。
 
 ふと気づけば、大衆「私」は他の政党なんざ気にしていませんぜ。
 民主党と、潜在的自民党があるだけ。
 驚いたもんです。これで民主党に自衛隊がついてたら、自民党でさえ完璧に復活しないと思いませんか、おのおの方。
 自衛隊ってこわいんですよ、は本題ではなく、2大政党の話。ものごと、投票率とか、って問題じゃないんだね。いや、不見識でした。
 
 私は大衆といっても「共産党まだまし」、という極左にあるまじき人間ですが、それでさえ現日本で政党は2つと思う。
 ところで、その実態は? 両者(民主・自民)政策なんて変わりゃしませんでしょ。 変わんないと思っている人間さえ2つだと思ってたら、変わると思ってる人たちは、それこそ2つじゃないですか。( 変わりあると思ってる人たち、そりゃ、自民党が思ってるように民主党は政治知識がないだけで、知恵がついたら変わりゃしませんぜ。あとくされがないので切り捨てるということはあるでしょうが)
 
 以上、ダラダラすいませんね。
 
 とゆうわけで、若い方々は、よい見ものを見た、ということですね。
 世間なんてガラっと変わる。
 政府=武力権力は取ったもの勝ち。人々は自分の目の前にある現実で判断する。今、日本で目の前にあるのは、民主党と自民党この2ケだけ。
 もしも目の前にあるのがヒトラー党だけであれば、やはり世間は一夜にしてファシスト政権を受け入れるのですよ。
 
 社民党も共産党も、自民党を追い落として、もう民衆運動は済んだんですから、早く離脱しなさい。
 巻き込まれてバカみるのはあなた方ですよ。って私も冷たいね。
 じゃなくて、私だって少し民主党ごときに肩入れしてやったんだから (投票も何もしないけどね、気持ち。) そっちのほうを誉めてもらいたい。
 
 自民党は落ちた。これで民主党の歴史的意義はオシマイ。
 あとはバカなこといわせずに自民党が復活したらいいだけ。理論はおんなじなんだから。
 
  自称左翼のおのおの方、それは早ければ早いほどよい。掌を返して、と人民に一時いわれても、2大政党化で困るのは一般人民だからね。
(P.S. 2大政党化とは、ほんのささいな改良的差異を選挙民が問題にしたがる、あるいはするしかない、現象のことです、ってここじゃ遅いか。「するしかない」というのは、選挙民は、なんであれ違いを選択することに満足するわけですよ。昨日より良い今日。私だってそうです。たとえわずかでも明日のほうがよければよい。でも、保守2大政党ではその明日がギッタンバッコにすぎない、というわけです。←P.S.長すぎ)
 

   以上、最近お客さん増えてて、(ということは、無垢な方々がいるということで) ちょっと悪い気がして。次、来週ね。
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思想の資格

2009-09-20 22:32:46 | 歴史への視角
 なんて、前述は前座で。

 下記2名のような、これでもフェミニスト、に比べて正真正銘のフェミニストが山川菊栄。
 明治23年生まれ、社会党系のおばあちゃま。もうしんじゃいましたが。
 『山川菊栄評論集』(鈴木裕子編)岩波文庫、1990。

 本題は、この宣伝を、まず、しまして。
 この人は、若いとき、って戦前ですが、こんないいこと書いてたよ、って話で。
 かつ、戦争中も戦争礼賛などしなかった。もちろん社会党系の人は拷問死などはしなくてすんだのですが、それにしても、男共がみんな戦争賛歌を奏で出すのは今と同じです。

 ついで、ただ、こんな人でも、戦後になるといまいちで、というのが本日の本体。
 
 思想に必要なのは、その主唱者が人間を見てしゃべっている、ということです。
 昔取ったキネヅカで、私は社会主義者でございます。といっても、そんなものは思想ではない。
 人間を見て、その人間について憤る、その人間のために闘う、闘おうとする、そこに思想がある。他人が共感し、それなら我も、という思想があるのです。
 山川女史が憤った女子繊維労働者の境遇は、確かに戦後姿を消した。その時点で、彼女らを若い心に組み込んだ思想家は役目を終えてしまう。この人は70年闘争時代も生きていたのですが、だからといって彼女には、私や私の友人が見た怒りは、見えはしなかった。
 (そういえば、高校生の頃、原宿にあったこの人の遺産組織の部屋を借りて、楽しい学習会をしたことを思い出しましたが、これって30年間思い出したことがなかったです、、、なお、経過年数はいつものウソ)
 それでよいのだと思いますが、それでよいのは山川女史のように、恥ずかしくなく闘い終わった人だけだなあ、とも思います。


(注)
以下、注です。

 と、上記を書いてる最中にネット検索で引っかかった、
 杉山章子著 『占領期の医療改革』
 の評
  評者:南雲 和夫(この人は今は問題ではなく)
「著者はこれら占領軍による性病対策および公嬌対策の本質を,「『民主主義』を掲げて公娼廃止を指示し,女性を解放しつつ,その一方では女性を性的対象物として扱い,性病予防のためには人権を無視した強制検挙を繰り返した」(136頁)ものと捉え,その二面性を突いている」

 こんなふうになってしまうんですよ、思想というものは。
 すでに戦後生まれの杉山女史には、公娼廃止の歴史的意義など理論上にしか見えていない。
 かくて、「同じだろ、男族よ」と、「二面性」になってしまう。制度的にぜんぜん違うものが、道徳的に同じになってしまう。彼女には男しか見えていない。
 (注:私もこの本持ってますよ。ただ、ちょっと大事に奥深くしまいすぎて)


 てなわけで、来週は、とっといた夏休みを使ってちょっと旅行しますので、お休みをします。
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今、一瞬の思想

2009-09-20 21:42:07 | 歴史への視角
 こんばんは、昨日今日、当地では神社の秋祭り。
 生まれ故郷は昔は夏祭りしかしませんでしたし、こちらへきても町内会の夏祭りしか、いいとは思えませんでした。今年も2日もかけてお年寄りのカラオケ大会に、ゴレンジャーの類の余興。いやなものはいや、という感じです(というのが仕事の帰りがけの道に、マイクで響き渡るんですね)。私などには無理があるんじゃないかと思いますけどね。過渡期というやつでしょうか。

 さて、本日は、思想の見方。
 女性問題には何の関心もありませんが、図書館の書棚を眺めていまして、ベーベルの本が目に入り、何それ何それと見るうちに、ほおと思ったのが
水田珠枝、「女性解放思想史」、筑摩書房、1994.
のあとがき解説の安川悦子。
 彼女、水田さんを批判して、いわく。
「本書といえどもその時代の支配的空気から自由ではなかった」「著者には、労働をとおして女性が解放される具体的道筋がはっきり見えていなかったように思われる」
「今は、、、地球規模にひろがる分業と協業の中で、フェミニズムの課題の解決を見通す時代になったのである」
 だってさあ。
 (ああ、これだけ転記するのは我慢の限界です。ネットでしゃべって欲しいね。)
 二人とも、思想史専攻の大学教授系。
 こういう人たちはもう70,80歳なので若い人たちには関係ないでしょうが、どっこい、やることは幾つでもいっしょです。年寄りのことと笑っていても思想史愛好者なんてそんなもの。
 
 思想というのは他人を説得するものです。その時代にしか生きていない他人を説得するものなのです。
 坊主の説教のように、「見通し」たりしなかったりするもんじゃない。
 もちろん、普遍的に正しい思想などもありはしない。その瞬間にフィットする思想のみがある。その思想はその瞬間に正しい。
 しかし、思想が、今一瞬にしか該当しないからには、常に、明日から見れば全ての思想は正しくない。今日の正当な思想は明日には古くなる。

 安川女史がなんと言おうと、水田さんはその時点で正しい思想を語っていたことに疑問などない。本書のように文庫再版になっていることがその証拠です。
 安川女史が、思想として水田さんを批判できるというのなら、同じだけ、自分の本を売らなければいけない。
 思想なんてそんな、他愛もない、しかし、私のような真理追及者には触ることもできない(したくもない)ものです。

 思想というものは、究極的には2つしかない。
 まず、支配階級の第1選択肢に到達するもの
 第2に、対抗勢力の第1選択肢に到達するもの
 あと、それらしいものが、次の自称理論闘争の再生産です。しかし、これは思想なんかではない。誰も説得できやしない、組織の内部人だけに押しつける説教にしか過ぎないから。
 第1に、理屈を捻じ曲げて、現実の不利益を、非合理と決めつけるもの
 第2に、現実を無視して、非合理ではないとあえて言立てるもの
 両者どっちもどっち。同じこと。

 とにもかくにも、社会学研究者が何を言っても無駄な領域で、ま、それで気が済むなら御随に、というところで。
 私などはそんなことで歴史が動いちゃたまらないとも思いますが、そういう日常的な過程が歴史の大道ではあります。
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「閣僚の3割を女性へ」

2009-09-12 22:03:04 | 歴史への視角
 こんばんは。秋の虫が鳴いております。
 当家はボロ屋ではありますが、うれしいですね。

 さて、本件。
 今日読んだ、昨日か今日の朝日新聞の大見出し、外国機関が「日本の女性差別を非難」とかいう趣旨。
 なに、日本に毛唐にケナされるような女性差別があったっけ、と一瞬思いましたが、小見出しまで見ると、「閣僚の3割を女性にしたらよい」とか外国から言われたそうです。そっから先は興味がないので読みませんでしたが。
 さてさて、朝日新聞ごときが何を考えて書いているものやら。(あ、ネットかも)
 というと
「またあいつが、何の偏見をいうのか」
 というのと
「あの人が差別発言をするわけないわ」
 という2通りの反応が期待されるわたくし。
 行いが悪いということでしょう。

 で、わたくしの趣旨は、「それもよかでっしょ。」 ということです。

 というだけで、日本人の9割から外れていると思うのは間違いかな。
 ふつうは、「そんなの個人の実力で決めたらいいことでしょ」 って思わない?
 生き続けて40数年(いつものウソ)、東京地方、同年代以下では常にそういう反応でしたが。
 東京地方、といったのは、そうでない地方とそうでない5%の人があるのを知ってのことですが。(P.S. これ、2通りありますね。本旨は女性差別県のことをいってるのではなく)

 でも、ここで、あえて、それもいいでしょ、といいます。

 問題は、上記中、「実力」ってやつでね。

 第1に、社会学研究者として強調したいのは、この幻想の実力をこさえたのは、権力を牛耳っている男の奴らだ、ということです。
 それがいかに今の世に合理的であっても、それは権力者の作った制度にフィットしている当たり前の状態に過ぎない。
 ところで、どうでもいい制度を変えるのは、法関係者です。
 素人ばかりの日本の国会議員は法関係者ではありません。ようやく閣僚になれる者だけが、政府官僚に勝てる。
 とゆうわけで、女がアタマになって「女でも実力がある」と呼ばれるように、制度を変えていくのはよいことさ。

 さて、第2点。
 そんなこといっても、女なんか、いい子ぶるか(例:某Y元外務大臣)、キマリを盾にとるか(某元英国首相)しかできないじゃないか。政治なんか、暴力団抗争と一緒だぞ。
 という発言が出ます。、、、出ないか。どうせわたしゃ偏見家だからね。

 だから、女閣僚はまず、そこを変えてゆくの。いい子の優等生で東大を出た女でなくとも女が閣僚をやれる世界、キマリキマリと言わなくとも、自分の主体的ない生き方をする人間が閣僚になれる世界。
 制度なんてそういうものだって。権力があれば変えていける。
 資本主義の世界では、商品経済を揺るがさない限り、どのようにだって変えられるのです。

 たかだか、閣僚など。
 閣僚って英語でmesitukaiっていうんですよ。知ってます?
 公僕じゃなくてね。国王の召使い。
 とりあえず、国家官僚がちゃんとしてればどんな人間でもできるさ。
   国家官僚は、ちゃんと計算の出来る奴になって欲しいけどね。


   
     なお、同じように、閣僚の3割は、過去3年の平均年収が300万円以下の人にすべきだと思いませんか?
     それが理屈でさあ。
     女性差別は悪くて、貧乏人差別はよいのかね。


P.S. というか(注)
   年収300万というのは、自営業的にいうと、年所得100万円ですね。
   自由業だと所得200万。ほんと、計算が合わないんだよね。
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ルサンチマン解消の制度化

2009-08-30 22:07:06 | 歴史への視角
 こんばんは。隈でございます。

 本日はまことにおめでたく、自民党惨敗で。
 「なんだよ、アナーキストが選挙結果を云々するのか」という、常連のお客様の中にはそんな声はおありでしょうが、
 その方は、私の本を買っていただいてないな、と思われ。
 われわれのような被支配民衆は、生きているうちに報われるなんてことはないんですよ。
 そんな発想は、思い通りのことができる、あるいはできてきた、上流階層の人たちだけの発想です。
 被支配階層の究極的勝利は、最期の審判の日まで待たなければならない(って、比喩。300年くらいです)。それまでは、今日起こったことで一喜一憂してもせんないことです。
 生きているうちは、支配階層の混迷を、笑い転げて憂さ晴らしをするものです。
 
    なお、なんだかんだで突然来てしまった方は、表題を見ていただいて。
    私のとこは、アナーキストのブログで。
 
 本日の憂さ晴らし
 1 自民党がこけた。もうシンプルに「ざまあ見ろ」、で。
 2 今後、「小選挙区制度」を訳知り顔で誉めそやす記事を載せるメディアが激減すると思われ。
   負けた自民党は、負けただけで、最後まで日本の独裁政党ですからね。一生発言力はあります。 ところで、負けた議員の悲惨さは庶民に近くてですね。さんざん選挙その他にカネを使い、ほかに収入もないのにプータロー化して。もちろんざまあみろですが、そういう権力者の経験は、貧乏人にプラスですよ。もっとも就職コネのあるやつらばかりでしょうが。
   公明党がバラマキ政党なのは、ここの議員が貧乏育ちだからです。政治社会学的には、公明党を単独政権にさせればいろんなデータが得られたのですが(過去形)。
 
   あ、で本旨。
   私のように、いくら投票してもみんな死に票なのは不愉快ですからね。比例区オンリーにしろよ、というのは、私の感情。
   これまで20数年間選挙権があり(ウソつき)、うち9割に投票しましたが、当選したのは、ただの一人ですよ。面白くねえ。ってそれだけの話ですが。
   
   注で。
   民主党になんか公約も何もできないのは、もちろんですよ。
   でも、トータルに曲げていくことはできます。民主党幹部は、あれでもこれでも圧力団体のいうことをめちゃめちゃにして返す。その中で、別の選択肢が官僚にも庶民にも現実化するわけです。それを政治権力を駆使して、制度化一歩手前までもってゆく。庶民はもちろん、官僚も同じだけ無責任ですからね。無責任ですが言えばいくらでもメニューを作ってくれます。しかし、そんなことをされては資本家にせよ労働団体にせよ地域中小企業家にせよ農民にせよ、たまらない。それは決して現実化しない。で民主党は、被支配庶民に、はやされながら、財界から総スカンをくって政権を自民党に返す。そのときには、一般国民全体として、次のありうる展望を掴むわけです。
      で、んなタマがいるか、って?
      それもちがくって、個人のタマじゃなくて、組織としてひたすらつきとおす根性ですね。
      で、それがあるかって?
      ないね。

 以上、世間話でした。
 
 今日はそんな茶飲み話ではなく、ルサンチマン。
 この言葉は、私の頃は中学か高校の国語の教科書に載ってましたけど、要するに「権力への恨み辛み妬み」のこと。
 2,3日前、佐和隆光の本を読んでたらアナクロのように出てきて思い出した言葉ですが、今日は太田昌国という人のブログにも出ていました。この人は、佐和さんよりも出来の良さそうな人ですが、ご存知? 要はおんなじ年代なんでしょうね。
 で、そんな恨み辛みも結局こんな形で消費されてしまう。全体的には選挙。私で言えばこのブログ。
 こんな形とは、規定的にいえば、「行為共同性を保ちつつ、その範囲内で」反対意見を表明することが出来る制度。
 世間では「ガス抜き」といいますね。 言い得て妙、というところで。
 なにも爆弾を車に積んで突っ込む必要はない。 同じだけのことが口先やペン先で行えるわけで。それが先進資本主義国というものです。
   こうゆうのは相対的、なんですよ。まあ、孤立していない個人なら生きられる国の特権というものですね。


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歴史を生きるということ

2009-08-16 22:22:55 | 歴史への視角
 世の中には、「歴史を生きる」という言葉があります。最近は聞かないですけどね。
 さらに、左翼では「理論と実践の統一」という言葉があります。もう30年聞きませんが。
 あと、もう一つ。弁証法の中では、正・反・合という言葉もあります。
 本日は、こんな左翼系のことばの、誰も知らない根拠を申し上げようかと。
    普通の人あてには、先のタイムマシン論、ということで。
    別にばかにするわけではありませんが、こうゆうのを伝えるのは、部外者には難しいんですね。身に覚えのないことはわかりません、という例題のようなもの。

 さて、社会科学をしようと思っている人は、観察者になってはいけません。人は主体の立場を離れては、生きている人間の生活を何も理解できないからです。
 この説明は長くなるのでやめますが、具体的に私以外の諸理論をみれば、結果として瞭然としたことです。
 が、一方、人は観察者の立場に立たなければ、生きている人間のことはわからない。こっちが今日の本体です。
 
 社会を見て、その中のある特定の状況で行為がもたらすはずの結果を簡潔に述べることは、若い人や人間関係の希薄なところで生きてきた人に告げる場合には、有意義です。その人たちはそんなことは知らないから、という意味ですが。
 ですが、それは必ずしも簡単なことではない。人の行為は瞬時になど終わらない、その一点が、人間行為者には理解しがたいからです。
 それは若い人ばかりでなく、統計学主義者や個人崇拝主義者にも理解しがたいところなんですけどね。(ちなみに、前記2者は往々にして同一でもあります。学生の人は、教授連の顔を思い浮かべてください。)
 要するに、何をしようが50年以内にその状況から抜け出せない人間は、どんなに嫌だろうが苦しかろうが理屈に合わなかろうが当たり前だろうが助けてもらおうが闘おうが、苦しんで死ぬしかない、ということがわからない人間のことですね。なんで、闘おうとしないのか、やら、がんばって上昇しようとしないのか、とかおっしゃる。

 ちょっと、被支配者、とくに江戸時代初期の被差別者を想定してください。
 そんな個人にしてみれば、生きている間に何かやれば自分が助かるわけではない、そんな状況下で、何をやっても無意味です。 社会運動? なにそれ。一揆?? ばかじゃん。
 そんな個人にとって見れば、歴史とは単なる無意味です。

 でも、観察者にとってはそうではない。観察者は個人を離れて見ることができるだけ「歴史」を見ることができます。いつか、やエタが「人間」となる歴史を。
 さて、この場合、個人たる人間はどちらにつくべきか。観察者になるのか、行為主体か。

 実は、教育を受け、それを受けることが当たり前だと考えがちな近代人のサガとは異なり、観察者になるのも行為者になるのも、人間自身とは離れたところで動いている事象なのです。先の問いなど、問い掛けられもしない(当たり前だ? もちろん、当たり前なんですね) 人間行為者は、彼の社会において全てを決する。即時か歴史か、これは結果であり、結果を決めるのは現在の社会関係です。
 江戸時代の被差別者にとって、幸せは同じ家族の中にあり、それを圧倒する不幸が、その幸せを破る社会関係にある、というだけです。そんな世界では、歴史などありえないのです。

 ところが一方、1960年代の日本被差別者にとって、運動は自己を過去と未来へつなぐ掛け橋です。(でした、なんて知ったようなことをいうと不遜ですから、単に理屈の話で)。これが、行為者にとっての歴史です。
 
 ここで、1つ目をまとめます。
 1 歴史は、歴史の中を生きている個人に特定して課せられていること。ある社会的な未来が発生し、人間行為者に見えるのは、特定の歴史の中で、前を向いて生きている人間にだけであること。
 2 それも見ようとしなければ見えないこと。

 このように歴史を生きるのは、その歴史に居合わせた人間だけなのです。
 居合わせながらも、どの歴史にもあるように家族の食い扶持にしか目を向けなかった人もある。それが悪いというんじゃなくてね。おかげさまで私も、時代の不自由はありましたが、人並みに学校にいかさしてもらいました。ありがたいことです。
 ともかくも、歴史を生きるのには歴史に存在するという資格が必要である。
 
 ついで、2つ目。
 行為者は観察者の立場にたたなければ、運動に入れないし、続けられもしない。といって、この観察者の立場に立てるかどうかも歴史である。
 
 さらに、3つめ。そんなことを言っても、こんなことをいう私を含めて、歴史に取り入れられたり排除されたりするものだ。
 歴史は続いているのに、歴史の意義を知ったはずの旧運動者は、今となれば、9割越えて管理者階級ですよね。
 行為者も観察者も歴史の中で踊る。踊りながらもくるくる回る自分と他者の立場を見極め続けるのが、行為者であり観察者である行為者人間の本来あるべき姿なのです。
 これが「正・反・合」の本来の意味です。それは「人が生きようとする限り」永遠に回り続ける。この「人が生きようとする限り」という点が大事です。
 この点を書いていない自称左翼の哲学書著者は、左翼でもなんでもない。偉そうに(ブルジョワ)学者の真似をして喜ぶ「事大主義者」といいます(昔はスターリニストといいましたけどね。まことに的確な評だと思います。)
 
 さてここで、社会科学が分かっているかのような顔をしている我々が、まずは知るべきなのは、仮に運動が被差別者の未来を作るということを知った、そんな江戸時代の被差別者が必要とするものは、生存する方途だということです。生存しうれば小さな家族の幸せを持ち続けることができるからです。
 
 だからどうだ、ということではなくて、研究者がそれを知っているのかどうか。この認識が、社会科学研究者の資格の最低の一段階だ、ということです。
 歴史を生きるという言葉は、生きる歴史を目の前にした行為者しかいえない。まずは、それを掴まなくては何を言ってもいけない。
 一方、観察者Aは、今を生きればそんな日が300年後くることを知っている。
 その地点で、行為者としてどう他の行為者と関わるのかが、Aにとっての歴史となるのです。
 

 なお、ちょっと話を戻して差別の話ですけどね。
 これは内緒ですが、それにしても、イデオロギーはここで最初の力を持つことになります。
 それは事実認識の1種として、死もありうると決めた人間に、最期の行為を導くほどの幸せを与えます。 死とは本来そうした事実認識の問題であり、それがウソか真か、それは誰にも知られない、単に二択の事象なのです。
 こうして、最初の解放の萌芽が現れたのが、最初の差別の日であり(なんで、同じ人間が、という自由への要求が人の中にあらわれるのです)、最初の解放が現れたのが、「被差別者が解放の主体である」、と言語により宣言した者が出た日となるのです。
 これは宣言を指しており、また、この宣言の思想を社会に出した者を指しています。
 その時間的な手前には、別の運動もありました。明治政権がもたらした「・エタも」、だから同じ人間として生きさせよ、という主張の運動です。でも、そんな一般的平等のお願い運動は、被差別者の身分を上昇させはしませんでした。
 宣言は、であるという一般的平等を越えて、被差別者が歴史の主体であることを断言しているがゆえに、そのために死ねる解放の運動となったのです。その証左が戦前の差別糾弾闘争です。



 ま、歴史が意味をなさない時代、じゃあ、何が自分を助けるか。
 神様ですな。かくて1神教がはやる。だらしないヒンズー教がはびこるインドでは、クりスチャンの8割が不可触とのこと。普通は宗派分化して解放の思想ができるのに、ヒンズーといったら。なまじ仏教があるからか、、、。
 なお、ガンジーはヒンズー教徒だそうです。『不可触は苦しみに耐えているから神の子』くらいは唱えたそうな。
 耐えとって神の子じゃ、我慢し切れんやつは悪魔の子かな。



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専制:その後

2009-08-06 21:31:36 | 歴史への視角
 こんばんは。昨日は、酔言で3つは多すぎましたね。舌足らずすぎ。
 ちょっと注を加えないと、と思いまして、昨日の(その1)の追加です。同じように酔っ払ってますけどね、というか同じようにしらふというか。

 正直者の社会学者への対比の(嘘つきの)政治学関係者というのは、つまり、そこから科学が展開されると思っていたぞ、社会学者ならそうだから。でも政治学関係者というのは言いっぱなしで終わっていいんだな。という、うらみつらみですね。ま、誤解といってもいいけど、そんな誤解を引き出すような学者のような書き方はよせ、というわけです。
 何の体系もない学問であれば、シンプルにいいなさい。

 ちなみに、わたしが「専制」を説明するなら、
1 個人による権力独占 と
2 その世襲制
 を特徴とする国家権力の状態です。
 それ以上は科学としては不要なのです。

 身分がどうのってバカ言うなよ。支配層と人民がくっきり割れるなどというのは、ただの歴史的一般支配状況じゃないか。

 まあ、上記の規定では歴史的概念としては不十分だ、とかいうやつもいるんでしょうが、われわれ個人行為者は、日常生活の科学者であっても断じて歴史家などではない。歴史概念などいくら並べてもそれは因果連関の科学ではない。記述の学問に過ぎません。記述の学問といえば聞こえはいいが、平たく言えば、年寄りの昔話ですね。「昔こんなことがあってのお。違う違う、そうではないぞ。その頃の王とはのお、、、」 お疲れ様です、長生きしてください。

 ついで、ケチを受けることを恐れての定義言語量の増加は、やはり行為者人間を科学から引き離すものです。
 定義量の豊富さは、そこから説明される要素・要因・契機をその中に含んでいるかによります。それらを含む必要がなければ、単純こそ命です。
 
 もちろん、吟味された文章は、そのときは読んで腑に落ちるでしょう。私も幼少の頃は好きでしたから分かります、というのは、たかだかそんなレベルだ、といってるだけですが。
 しかし、腑に落ちた人間は、実際は現実を何も理解してはいません。彼が理解したのは、ただ、その文章にすぎない。
 一方、科学とは新しい現実を、行為者の頭に保有されている概念で、理解し、将来を予測するものです。我々行為者は、そのために、概念のイメージを頭に収めなければいけないし、そのためには、概念は、シンプルに頭にイメージをひきおこすものでなければならない。また、頭に収めればそれ以上の定義など、不要なのです。

 ウェーバーの「理論」なるものが現実には誰にも使えてこなかった「現象的な」理由はここにあります。
 
 で、お前の言うのは役に立つのかって? 現に、今、独裁過程から3桁の世襲を迎えることの表現に適切な言葉として使えるんですから(ちょっと薄いですけどね)。自称政治学では、まだ北朝鮮は独裁ですね。それでは独裁過程など説明できない。権力が3世代続きました、って記述するだけですよ。まあ、説明したくもないんでしょうが。
 
 ちなみに、「政治学」的専制概念って人民のことを考えないんですよね。そんな、王が、原始時代以外に存在できるかよ。想像力がなさすぎるよね、っていうか、そんなことも分からず生きれてるってのも、社会適応力がないっていうかね。(その意味では私の上記定義の「個人による」も誤解を与えますが、人民のことを考えない統治がありうるなどと思うのが、ハナから馬鹿だって) 若い人たちは、この見方だけはやめなさいね。
 と知るだけで、政治学4単位あげますから。

 (P,S 私はアフリカの新興国のごとき統治なき国家(確かに人民のことは考えないように見えますしね)については、国家ではない、といっております。まあ、微妙ですけどね。人間社会が分かっていれば、表現は後からついてくるものです)

p.s.8月10日,gooの表紙に専制問題がでてました。李英和 関西大学教授とか。
   あぶないあぶない。こんなレベルのことで真似されたと思われたくないやね。
   なんでも早いもん勝ちだね。
     もっとも、どんなレベルでも、あえて真似するほどの人間はいないけどね。
 
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