goo blog サービス終了のお知らせ 

リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

時間を区切るものは何か

2009-05-17 21:17:12 | 歴史への視角
豚インフル。今日のネットコピー。
 
  『生徒らの高校がある大阪府寝屋川市などには、誤解にもとづく誹謗(ひぼう)や中傷が殺到。関係者らは、いわれのない偏見などを危惧(きぐ)している。
  「成田から帰ってくるな」「どうしてあんな学校がカナダ留学にいくのか」といった理不尽な電話や、「なぜマスクをしなかったのか」「早く帰国させるべきだった」といった留学中の行動にも批判が寄せられた。「謝れ」「賠償しろ」「バカヤロー」といった罵声(ばせい)を一方的に浴びせたり、生徒や教員を個人的に中傷したりする内容の電話もかかっているという。』

  『大阪府の橋下徹知事は17日、、、幼稚園、保育所、高齢者通所施設などに対し、休校や休業を要請することを明らかにした。
『幼い子どものいる働く親はどうしたらいいのだろう。「こんなに身近に新型インフルエンザの影響が出るとは思わなかった」。小学3年(8)と幼稚園児(3)の2人の娘を持つ神戸市内の主婦(39)は、学校と幼稚園が1週間の休みとなり、週3、4回通う老人保健施設のパート勤務をどうするか困っている。実家は九州なので、親には頼れない。「どこに子どもを預ければいいのやら、頭が痛い」と言う。』 ま、条件いい人で。
 
 わかってたことですよね。
 私みたいな部外者と私のブログの読者でさえ。
 
 そういうことで、次は、経済的影響が大きいのに気づいて、何とか収拾する、という過程です。
  これ、「収拾しようとする」じゃなくて、「収拾する」ですから。
  それが社会科学というものです。
  
  いずれにせよ、時間の問題。
  もしも私の意見を聞いて、ぎゃあぎゃあ喚かなかったら、10年後、疾病史に、
  「2009年の夏はインフルエンザが流行った。新種だったので、夏にも拘らずかなり多くの人が風邪を引いた。今のインフルエンザの10%は、このA豚型である」
  と1行載るだけだったんですけどね。もう遅い。
  ポイントは、喚こうが叫ぼうが、結果は一緒だった、ってとこです。変異だって? フツウと称する「季節性」インフルが変異しないなんて、どなたか保証してくれんですかね。「季節性」も元は野生動物のインフルだって自分たちでいってんじゃん。
  
  さてと、収拾に際しいちばん摩擦が少ないのは、吉本興業から2人くらい患者が出ることですね。それが社会運動の機能です。この時、やっと正気が戻る。
  発言的影響力の高いところが被害に合うと他が助かる。無駄な努力をする必要がない。興業ができなきゃ吉本も黙ってられませんよね。
  頑張ってください。
  
    なお、誤解がないようにいっておきますと、関係者はご存知のように、私は吉本興業が嫌いなんです。
    別に冷淡なんじゃなくてね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体制と「反」体制

2009-04-26 15:23:00 | 歴史への視角
 こんにちは
 世の中春で、木々の若葉が輝いていていいですねえ。
 もっともついこの前、ケヤキが赤く輝いていたと思うのですが。この冬は(なにもせず)とてもよく寝た気がします。

 さてと、ここのところちょっと林業に興味でちらほらと読書して気がついたんですが、林学なんて自然科学のフリして大したことないなあ、と思うのが、二酸化炭素問題。
 いったい人間の産業諸活動をオミットしたところで地球上の気体としての酸素は増えているのか減っているのか、だれも知らないでしゃべっていそうな。
 3人の林学系大学教授と1人の評論家の本を見ましたが、誰もいわない。せいぜい「樹々のおかげで『ちょっと』増えているだけ」くらいなところ。
 ほんとかよ、ちょっとってどんだけだよ。
 上記知識人たちは環境へ発言している部類の科学関係者のはずなのにそんな認識なのだから論議にならない。
 
 一方で20億年でこれだけの酸素ができたって話もありますから1億年で空気の酸素の1%ができる、ということは1年で空気の0.00000001%増えるんでしょうか。それって1万年前で大型動物5千万匹だったところ人間50億人越えて生きているとして、100倍に増えた現在でもクリアされるんですかね。
 納得できない。
 どんな根拠があって、そしてそれを誰が知っているのか。
 結局、「自然科学はおおざっぱな社会科学と違って科学だ」などといいながら、人間にできるのは小手先で見えるものの因果関係の解明だけ。自然科学のうちの基礎科学に限っては、そんな条件がそろっているだけ、ということのような気がします。
 
 ま、他人事なので、これはコーヒーブレイク。
 今日の話は、前回の、「人間いつの時代も変わらない」、の続き。
 反体制とは、体制派の分派のことだ、というような話で。
 なにをいっている、って今の世の中を見れば、政党といえば、自民党(=公明党)と民主党ばかりじゃございませんか。これについて「私が『全部体制派だ』ということ」に疑問がある人はここには来ませんよね。まあ、お客人ご自身で何を思うかは別として。
 さてと、昔はたしかにそうじゃなかった。社会党などという社会主義政党が民主党の席に座っていたのはそんなに昔ではありません。
 それでも、社会党はエセ左翼政党だった、などという気はありませんで。私がいいたいのは、単に、人々に反体制とみなされ、権力に対抗するものとして認めてもらうためには、まずは権力者と同様に権力をもたなければならないということです。
 
 結論から言えば、個人の権力への対抗の願望は、その内実にかかわらず権力に対抗する外見をもつ政党へ吸い取られていくのです。それ以外に、対抗する権力がないから。民主党と自民党は同じ人間で構成されている。しかし、マスメディアによれば、民主党は野党であり、自民党を批判している、であれば民主党に肩入れするしかない。
 今、私が無視をした共産党。これはイジメの対象にしかなりません。権力に対抗する権力をもっていないから。それでは初めの個人が持つ行為の意味をクリアできません。しかして、共産党に権力を感ずるのは同じ土俵の弱小セクトだけ。
 逆にいえば、共産党やその他のセクトも権力に対抗する権力を持った瞬間に、個人の願望を吸い取っていく組織としての資格をもつわけです。
 じゃあ、その対抗する権力とは何か、ってその国家の大きなシステムの中で、当然に動かせる権力、武装力ないし動員数です。あるいは武力による武装、あるいは情報による巨大な人的動員力、といってもデモの動員数ではありませんよ、すべての井戸端会議・酒飲み話への動員数です。それが権力でありそれは体制=現行社会システムに付属するものです。
 
 1950、60年代と、人は変わっていない。
 単にシステムの構えが変わっているわけです。
 じゃあ、どうするって、隈栄二郎『パリの爆薬』でもごらんください
 
 結局、左翼なんていっても、理論的には左翼の敵などいないのです。全部が味方だから体制も変革できる。
 1917年ロシアでも左翼の敵などいなかった。単に政権の変更があっただけです。
 敵は具体的な人間同士がつくるものです。そんなもので歴史を動かすことはできない。 だから、左翼の敵といえば、具体的にケンカする機動隊と、諸派同士、そして、カッコだけで何もしてくれない恨みがつのっていく、飢切った貧乏人だけです。
  (子供も居なくなってあまり貧乏じゃなくなったところ、そろそろ貧乏人は失礼ですかね)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「社会倫理」と思想

2009-04-19 21:25:07 | 歴史への視角
 こんばんは。
 えー、世の中、「着てはもらえぬセーターを、、、」なんて歌があるものでございますが、季節外れの話題を載せるブログを書くというのもそう面白いものではございませんで。

 なんか他人のブログで面白い話題ってないかなあ、なんて探したりしましても、知ってる人の近況ブログは別として、社会現象にぶちぶちとした感想を載せるその場限りの携帯ブログじゃーねえ、みたいにサーフィンしながらふと気づいたのですが、世の中「社会倫理学」なんて講義がぞろぞろあるみたいな。
 カッコでくくって検索して2万件。「理論社会学」で打つと8万件だから、そこそこがんばってるような。
 こいつが昔の「思想」の位置をしめているようです。昔は「社会道徳」といったんですけどねえ。
 思想じゃなくて道徳なところ、さらにケツを引いて「ただの一人だけの倫理だよ」なんていう類のものだから、何をしろというわけじゃない、「こう考えた人がいるけどどう思う? ほんとはこうなのよ」みたいな、下手な種明かしにもならない隠居説明つけてねえ。

 よくわかんないねえ、この元気のなさ。今時の若いもんて元気ないよねえ、、、
 それに引きかえ年寄りが元気なこと。
 職業経験でいえば、同じクレーマーでも、若い奴らの「なんでだめなの。いいじゃん」クレームと違って、年寄りのクレームは理屈があるよね。「これが正しい。お前が間違ってる」だあね。爺さん、自分が一番偉いと思ってるんだから。
 ま、どっちにしろ迷惑だけど。

 で、1980年までは、「社会道徳」はあったけど、「社会倫理」なんて言葉はアカデミズムの中では見つからなかったものです。なんで流行ったのかねえ。
 と思ってみると、こうゆうテーマは、最首悟とか西部邁とか(これは「経済倫理」とかいったか)の、思想も倫理も自分が敗れ果てて語れなくなった元活動家の慰みもんみたいな気がしますが。
 
 で、今日の「ためになる知識」。「歴史はこう変わった」 です。

 我々の時代には、思想により一瞬に切り捨てられた世界の構造が、
 この時代では、「一瞬でいえる悪口はないか」という評論の対象となっている。
 我々の時代には、確保された反抗への賞賛が、
 この時代には、体制によって確保されている。
 我々の時代には、かくて保持された個人の自立が、
 この時代には、弱々しい体制の歯車だ。

 すべて人間若者としては同じなんだけど、あまりに違う結果が。
 これは、世間の道徳の受け売りをおずおずと反射的に分泌する者と、自分で消化した価値観を持てた者との違いではありますが、その消化液は、社会の権力構造=賞賛構造というわけです。(「おずおず」という表現はバカげていようが命をかけていないという事態を指します)
 世界というのはそういうもので、頭で考えることが口に出るときは、時代によっていろいろの姿に変わる。
 当たり前?
 そんな当たり前のことを社会科学として捉えられたことなど、過去300年で2度しかない。
 いわく、エンゲルス・マルクスの上部構造論であり、隈栄二郎の「風とベイシティ・キャット」です。
 
 
 ここんとこ仕事の合間の時間は本書きに取られてて、世間的にためになることが少なくてすいませんね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生産力と人間の矛盾

2009-02-22 21:26:43 | 歴史への視角
 こんばんは、お寒むうございます。
 冬って同じ気温でもだんだん寒くなって、ほんと布団が好き。

 さてと、社会科学をかじったちょっと古い人ですと、「生産力は人間の力だ」なんて言葉を読んだことがあるのではないかと思います。ま、そういう古い人間はお客さんにはいらっしゃらないんでしょうね。
 昔はマルクス主義なんてご法度でしたから、っていつの時代だ、とにかくマルクスの代わりに、自由主義者はアダムスミスを読んだのです。自由主義者って穏健革命願望家って意味ですけどね。そんなアダムスミスの発想が、「人間が生産力を作る」。

 長い前置きでしたが、そんな話ではなくて。
 本当に自由を望む主義者は、個人の立場を守らざるを得ない。他人て奴は、社長であれ部長であれ課長であれ、どれだけ我々を拘束すれば気が済むでしょうか。
 なんて、ほら、いちおう筆名だし。知ってても知らないふりとかね。みんな大人だから。
 ま、そんなことはどうでもよくて。
 
 生産力に魅入られたのが、アダムのリンゴ、人間の原罪、っていう話です。
 
 個々の人間というのは残念ながら他の人々の助けを借りなければ、豊かな暮らしはできない。
 この寒い冬、これなしに生きられるかという炬燵、ストーブ、エアコン、くるまれる布団も自分一人や家族一つで作れるものはありはしない。これがなくなってもいいか、といって、まず誰一人いいとはいわない、と断言してもいいでしょう。日本の800年前は綿を包んだ布団などなかった、天皇・将軍もそんなものは掛けられなかった(PS.絹綿を詰めた着物があったって、訂正)、今は毛布を含めればそれがないのは1万人以下。それが生産力です。
 そして、これが原罪です。個人は誰もが個人では生きられない。それ以上にもっといい暮らしを望んだりする、であればあるほど、人間個人は、他の人々の意思と折り合いをつけていかなければならない。
 
 こればっかりはマルクスもいわない、ってこのブログはマルクスもいわない話ばっかりですが。
 マルクス・エンゲルスの時代ですと、というより、その衣鉢を受け継いだつい20年前までは、「公共権力は階級の区別がなくなると公共権力はその政治的性格を失う」とか言われたもんです、って「共産党宣言」そのまんまですが。
 だからなんやねん。公共権力ってなにか偉いんか。
 政治的性格を失ったら戦争しても鬼畜じゃないとでもいうんか。
   なんちゅうと、戦争は階級が起こすとかいうんだよね。ばーか。
 
 まあ、同じ左翼として現実に戻り、とにかく、道路を作り、橋を架け、水道管を敷設し、そんなこんなは、社会には必須といえる。そこで、ともかくも、国家には公共的な事務はどんな時代にも残る、それをどう表現しようか、というのは、国家を廃止し個人の自由を生きられる社会を探るアナーキストの問題です。
 「国家は公共事務の担い手だ」とするアピールでは、じゃあ、公共的な共同体暴政ならいいのか、という話になる。スイスだってそおさあ、みんな徴兵されて国家のいいなりさあ。

 そんな話よりは、「国家はただの一工場、土木やら働けない人救済やら、そんなカテゴリーに限った仕事をする」、まだこのほうがずいぶんいい気がする。
 これだと、「国家は工場だから下っ端公務員はみな派遣だよ」みたいな話にはなるけど、今の社会、ほっといたってみんな派遣だからね。
 ポイントは「一」工場、というところ。国家を廃止しようという外見を持つボルシェビキが廃止の一歩にもかかれなかったのは、歴史的規定性だけではない。それだけなら、まだスウェーデン的福祉資本主義の道もとれた。そんな発想さえないというのが、「階級」では一見ない、「国家」の権力に涎れをたらし続けるマルクス以来の血の絆、というものです。
 
 どうも切れてない論ですけどね、アナーキストであリ続けるのには、案外苦労するんですよ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人の暮らしへの第3者的評論

2009-02-01 22:11:58 | 歴史への視角
こんばんは。
ようやく2月です。4月まであと2ヶ月。うれしい。
4月は本社勤務の約束で。
  出向先はどうしても較べれば他人ばかり。じゃあ派遣・アルバイトはどうなんだ、っていわれると、その通り。ひどすぎる。2ヶ月3ヶ月でどんな関係が築ける?
  世の中カネじゃないにしても、その、ない人間関係もさらにないんじゃ、つらすぎそう。
 (PS.こう書いたけど、ふつう的にはちょっと変だね。すねてるはずの人間が本社本社って。ま、シンプルすぎるのも他人にはわかんないよね)

今日はギデンスをネット検索してまして、最近はギデンズっていうそうですが、どうでもいい。イギリスで30年前一番有名だった社会学者だったのですが。イギリスの社会学は、アメリカなんかと違い、きちんと社会をみすえてまともな研究をしている人間が多いのです。で、そのおじさんどうしたかと思ったんですが、最近は、昔、往年の売り出し社会学者もハッタリ理論を出したまんまブレア政権のブレーンになっちゃったそうで、かわいそうなのは騙された極東の駆け出し社会学者(の卵)。ついてこうとしたらその有様で、今でも理論社会学をやれてる人はごくわずかのような。

しょうがねえよな、お互い様だし。

そんな悪口だけなら書かなかったんですが、その過程でネットウヨクのブログが出てきて、なんでも貧乏な韓国を近代化したのが日本なんだから、おまえら日本を敬え、みたいな論です。
あきれけえった論理だ、けど、西洋じゃどこでもいってますよね。日本も西洋かぶれしてきたんですよねえ、そんなの右翼じゃねえよ。強いものに寄生するだけの弱虫さあ。でしょ、鈴木邦男さま。
だからウヨは嫌いじゃないのさ。ただのお子ちゃまだからね。
(鈴木邦男(=代表的右翼)は敵だからね、なんとかやっつける算段も必要だけど。なにせわたしゃ肉体力がないからね。)

評論家はみんな同じ。てめえが行為主体でもないのにあれこれ見てきたような「ホント」をいい、
(もちろん「ホント」だなんて思ってないけどね、論をはっきりさせるために「ホント」にしときましょう)
「だからこうだろ、それをしてやったこっち側のみんな、日本人、俺ら、えらいんだぜ」って、ばかやろう。
じゃあ、てめえのお母さんてめえから引っ剥がして、テメエだけ御殿に入れていいもん食わせていいオべべ着せて、それでも同じことオメエはゆうか!  ゆうか!!  ゆうか!!!  言え!!!!

   これだから嫌われんだよね。
   まあ、しょうがない、そうやって生きてきたんだから。
 
人間は仲間の中で、自分たちの力で、自分たちを楽にしていく。
自分たちの力でできなければしょうがない。それはそれで、やるだけやった、後は次の「仲間のものに」託す。そこで自尊心もクリアされ平安に死んでいける。鉄砲持ってきたやつに尻尾振るのは、情けねえガキだけだぜ。
太平楽で親に養われてきたネットウヨクにはそんなこともわかりゃあしない。

もう、ガキはいやだ。嫌いとかじゃなくてね。いや。
きみたち、自称ウヨクの諸君、
鈴木邦男のような正式な右翼はそこから先の論議をしてるんですよ。それがわかんねえうちは、黙ってろ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生、1色なのに7色

2009-01-22 21:35:01 | 歴史への視角
 こんばんは。
 このたびは、米国、初めての黒人大統領おめでとうございます。
 皆様にかぎらず、そんなことはどうだっていい3割の方と、憎々しく思っている0.1%以外の方は、みんなが喜んでいる日本はよい国です。

 このブログは特殊なので、「そんな米帝の首領がなんだろうが何がうれしい」という方もいらっしゃいますでしょうが、歴史というものは、それがいつであれいつか、差別に対抗する事実が歴史に登場しない限り差別が続いていくものです。
 米国資本主義がどう変わろうと日本人民には関係ないかもしれませんが、世界史上では、影響力の強い国家で反差別へのメルクマールができるのは、大きな一歩です。米帝がどうのなどと下宿の片隅で呟いているよりは、ずうっと人類の進歩につながる出来事ですから。彼氏が、今後何するかは知りませんけどね。生きている間そこそのことをすれば、黒人が大統領職をまっとうした、というものです。

 さて、そこで終わらないのがこのブログ。ひねくれてましてねえ。
 憎々しく思う0.1%の8割の人は悪い人じゃないんですよ、と普通の人たちへ。
 日本人の0.08%、8万人ぐらいの人にとっては、資本主義者が5分後の敵なのです。あした、資本主義者と戦うために、5分後を費やそうとしている人たち、そんな人にとっては、米帝の首領が誰だろうと、ただの米帝の首領そのものであることに変わりはありません。日々を生きるというのはそういうことです。
 
 で、その次が問題で、なので、労働貴族でも労働者階級がとりあえず革命勢力なんですよねえ。
 と、唐突に。
 失業者は、好きも嫌いもあまりなく(ほとんどなく、と書くと分かりやすいですか)、資本家に取り入らなければ食べていけません。資本家とケンカする気持ちになれるのは、本工労働者だけです。日頃、「このやろうめ」と思う気持ちで素直に心を満たせる条件というのがあるわけです。失業者はいくら資本家が嫌いでも、そこで何とか生きていく、まずはその気持ちで心を満たさなければなりません。
 だからといって、お互いに張りあっててもマイナスばかり、というのが人生なんですけどね。
 いざ、行動ともなると、本工労働者なんて、若年公務員や零細企業員しかまともな行動は起こせませんからね。偉そうなことはいいっこなし。でも、統括者がいないと、そんなことが「わかんない」んですよね。ここもポイントで、実はわかんないんじゃなくてね、我慢ができない。なんで俺が引かにゃあならんのだ、みたいな。おれは体張って運動してんだぞ、偉いんだぞ、てなもんで。
 かくて、大統領です。山本義隆みたいなのが必要なんですよ。内容がどうだではなく、象徴として祭られた人間が調整する。「みんなが支持するあいつがああゆうんだから、しょうがない、大衆がついてるからなあ」。じゃなくてえ。だからそれが人生なんだったら。
 そこがわかんないんだよなあ、そのへんのじいさんチビッコには。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不景気と農村共同体

2009-01-01 21:22:21 | 歴史への視角
 明けましておめでとうございます

 今年はなんとなく、このブログを定期的にご覧になっていらっしゃる方もいるような気配も覚えまして、少し改めましてごあいさつを。
 
 正月早々ですが、農村的共同体の意義。
 皆様、ここに来て面白い話があるだろうなどと誰も思ってらっしゃるわけはないですよね。ただ、gooからいらっしゃる方がいるので、ほんと題に気を使います。なるべくつまんない題はないか、みたいな。
 
 世の中には、新聞やネットに載らない、でも言われてみればそうだ、という情報がありまして、(私は社会学研究者ですので、こんな歴史話に私の見解だとか言うつもりもないのですが)戦後60年、日本は今だけが不景気ではなかった。昔から不景気はいくらでもあったけれど、今生き残っている企業の元幹部、今の会長連中は、昔不景気があったことなど、大学の統計学の授業でしか習ったことはない、はず。そんな慶応大学での元幹部は知らないけれども、でも現実に人は苦しんできたわけです。
 そのときには、派遣業界はなかった。
 でも、同じく、膨大なパートタイム労働者がいた。出稼ぎ、パート、その他の形態を持った農業労働者とその家族です。戦後20年まで、そうした人たちが、不景気の安全弁となっていた。そういう人たちは、不景気となれば甘んじて国へ帰り、都会へ出る前以上に肩を細めて時が過ぎるのを待っていったし、あるいは家庭へ戻り、横暴な夫の酒をなんとか工面する生活に戻っていった。でも、とりあえず、屋根はあり食べられはした。
 もちろん帰ろうにも帰れない人たちは「たくさん」いましたが。
 資本主義には、爛熟度の時期により、そういう選択肢もある。
 
 同様に、中東国家では、同一国家の農村からの出稼ぎの代わりに、周辺国家の農業地域からの労働者が働き、不況ともなれば、そういう人たちは国へ帰る。
 もちろん、帰れない人たちは、同じように「たくさん」いるわけです。帰れない人たちには、その数だけの変化のある、不幸がある。
 
 というわけで、現在、日本では、およそ社会の束縛の集約形である農村生活者が1割を切って、子供達は自由を求めて親の元を離れて。それはそれでよいことなのだけれど、今までなら生きてはいけた不景気という事態が生死に関わることになる。これは日本では初めてといえば初めてな事態なわけです。
 
 ここはアナーキストのサイトでして、国家の次に行為者の自由を束縛するのは農業労働です、ということを普通の人にはまず抑えてもらわないと困りますが、(農業家長は自由だからねえ、間違って農村主義者になる左翼も多い昨今、でも家長だけじゃ米は作れんとよ)。ことは自由の問題ではない、命の問題だから。
 
 別に社会学じゃないけど、わたしもおじさんなんで、ちょっと「出身家庭」の意義を語りました。
 お正月ですからねえ。


                                   下記、くずコメ。↓ご注意。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺明ブログと大正自由主義

2008-12-21 22:25:46 | 歴史への視角
 というわけで、引き続き将棋竜王渡辺明と、読者のみなさんのお爺さん世代の自由主義の関係です。(この間面白がってネットサーフィンにずいぶん時間を使ったので、モトをとろうという感じで)

 渡辺竜王ってなんだ、みたいな話はネットで見てもらうとして、大正年間というのは大正自由主義といいまして、それなりに個人の自由が花開いた時期なのでした。
 日本は戦前だから全時代が封建的なわけではなかったのです。
 ではわからないもっと下の世代の人向けに、「ちょっと昔は、個人の自由なんてとんでもなかったんですよ」っていっておきましょうか。
 
 その大正時代の人民社会の価値といえば、中流階級向けの文学でした。一方で天皇・華族とそれにへつらう高級官僚、他方で文字の書けない下層階級(多分、相当読めたと思いますが)。その二つの間の中間層が、資本主義の商業小説文化を担った(つまり本を買ってくれ、そして買ってくれるから印刷した)中流階層なわけです。レベル的に一般論をいえば、圧倒的な下層階級を抱えて、高等小学校卒以上、まあ上位1割くらいでしょうが。それにしても全国民5千万で、男半分として2,500,000人いるわけで。ちょっと多すぎますかね。 
 とにかく、その時代の一定期間では曲りなりに、それまでの社会の圧力に対し、個人の自由を訴え続けたわけです。
 その後、純粋資本主義の発展と必然的な没落により、そんな「プチブールジョワ」の遊び事では救えない人間たち、「低賃金労働者」が増えすぎてしまい、あるいは国家社会主義、あるいは観念的社会主義に収斂されてしまった。
 
 どこが渡辺竜王かな。
 
 社会の価値観というのは、そういうふうに、情報の流布階層があって、その階層の圧力によってある程度まで立ち上がっていく。いいたいことは、文化というのは、偉い奴が作るわけではないんだ、ということですね。偉い奴らは、歴史に残す文面を作ってはいくけれど、気をつけなければならないのは、人民の文化は、それとは別の次元である。
 
 将棋なんていっちゃなんですがマイナーな話ですよ。ただの趣味。子供の頃はちょっとやったかも、みたいなのがせいぜい。
 そんな中で、渡辺くんのブログを見た人だけが、再度将棋の世界へ還っていく。(と、この竜王戦の間、そんなブログの告白をいくつも見ました)
 
 なぜ?
 そこに自由があるからです。
 2008年において、自由は、魂を売った最高峰の将棋指しではなく、家族で楽しく暮らす一般民間人のごとき、しかし最高峰に劣らぬ将棋指しにある。
 まあ、平和ってことですね。
 私は平和は好きです。
 若い人たちはどうでしょうね。このブログに来る人は分かるでしょうが、低賃金労働者が生きていくため、人間らしく暮らすためには、いくつもの場面で、魂を売る人がいなければならないことも確かなのですよね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKのPR

2008-12-15 21:20:52 | 歴史への視角
さきほど、NHKで派遣労働者の特集をやってまして、番組冒頭、すごくシンプルに問題の原因を解説してました。
「ごらんください、このグラフを。派遣労働者数のグラフです。1980年からずっと伸びているのが分かります。つまり、低賃金の労働者数がこれだけ伸びてきた、ということです」

おおお、シンプル。
誰に反論ができるんだ。(ちょっと意訳。でも1分半の説明で見事でした。短か過ぎてほとんどの人にはわかんなかったでしょうけど)
派遣が増えれば低賃金労働者が増える。貧乏人が増える。首になれば正月を越せない人間が増える。そういうことですよ。当たり前。

で、何で増えたか。
1986年、労働者派遣法ができたからだ。
法律を甘く見たらあかんぜよ。法律は武力権力が認めた制度なんだから。子供が100万集まったくらいじゃ変えられんのよ。

でよ、誰だ、賛成したやつ。改定(更なる改悪)も何度かあったってよ。賛成したのだあれ??
責任者でてこい。(自民党以外にいるんだから話になんねえ。今だって同じ事が起きれば賛成するに違いない元左翼たち)

いえ、本題は、「へえ。ここんとこNHKやるな」、ってことで。
他チャンネルはお笑いばかり。視聴料払ってやろうか、という気になります。
昔は違ったんだよ。われわれ、レールから外れた中学生の見るものは、まずはTBS、ついで朝日放送。NHKなんざ、なにもわれわれ的なものは放送してくれなかった。

とゆうことは、私も、もうレールの上まっしぐらなのかな。
ほんとは落ちても痛くない年なのにね。扶養家族もいないも同然だし。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史における宗教(その3)

2008-12-07 21:55:49 | 歴史への視角
ん? その3?
 前回の続きです。

 てなわけで、イスラムテロリスト。
 日本じゃ97%の人間が毛嫌いするイスラム教。
 以下は、予言です。ぜんぜん知りませんが、理論上そうだ、ってことです。

 およそ近代資本主義国家、って欧米のことですが、は、自分の都合のいい国にはキリスト教宣教師を尖兵として送り込み、自国の資本主義経済に取り込んでいきました。その他の不要の地域には、商品経済とともにイスラム教が入り込んでいきます。
 この近代資本主義に不要だったイスラム地域、あるいは若干のヒンズー教地域に、資本主義の底辺経済を担うように要請が飛びます。かくて発生するのが、買い叩き、不要に転じた産業引き上げ、それに伴う廃業首切り。日本の今の派遣首切り、前からのパート首切りの常態化ですね。
 石油なんて、資本主義の最基層ですが、おかげさまで村が廃墟と化したところもあるんですよ。私は知りませんけどね。もちろん儲けてるやつはいる。昔から支配とはそんなもの。黒人奴隷なんて8割は、土地の黒人王が売り払って儲けたんですよ。いや、7割か6割か、それは知りませんけどね。
 世の中、こんな予想もわからずに、世界プロレタリア革命万歳みたいな奴がいる。
 世界革命は万歳でいいけれど、じゃあ誰がどんな戦いを現象させるんだ、って。
 
 プロレタリア?? そんな綺麗ごとじゃなくて、世界というのは、支配的な生産様式が資本主義である限り、最底辺はルンペンプロレタリアートなのです。あるいは、ヤクザや同情的インテリなんです。
 宗教は、政治と同様に、人々に幸せを約束する外見でのみ、布教される。権力者が主導しようと、奴隷達の間で親方に隠れて祈りを続けようと。
 それが話題のイスラム教です。 
 不幸せの極致ですね。昔から民衆が不幸せだったのと同様。テロリズムでしか生きようがない。誰が好きで他人を殺して自分も死ぬか。
  
 だからといってどうなるものではない、しかし、生産関係から離れて見ることのできる人間が、本当のことを認識して他人に告げない限り、誰も知らないまま次の一歩は間違った方向に進むことになるのです。日本人も、というか富裕国日本人だからこそ、見ていく必要がある。
 20年後ですけどね。
 わたしゃいないし。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Voyant,あるいは前衛(その2)

2008-12-07 21:48:48 | 歴史への視角
 前回の続きです。

 こうした規範の崩壊による弱いものいじめの台頭は、結局のところ、弱いものイジメへの志向の集中、早い話、ナチスドイツを現象させる傾向へ働きます。強いものを、自民党や資本家を、倒そうなんて方へは動きません。もっと手前の人間を潰す。台頭しかけた民主共産党とかね。もちろん、20年後の話ですが。
 そんな日本人政党よりも弱いもの、それが、低開発国、あるいは日本国内移民。
 国を動かすのは生理性が先ですので、みんなが食えている間は、陰湿な差別行動にすぎません。
 (が、ここだけの話、わたしはそれだけで反吐がでるんで)
 しかし、資本主義は、低開発国が「発展」する限りにおいて、必ず没落する。
 あるいは、それを切り捨てずにはおかない。
 それが窮乏化法則です。

 で、どうする? そこには、誰か、未来を告げる人間が必要です。
 誰にも褒められない人間、わずかの移民にのみ評価されるかもしれない幻想で、日々を暮らせる人間が要る。これは仕方がない。偉そうでも誰かがやらなければならないのに、誰もやらないはずの仕事です。
 労働者だからできる、なんてことではない。プロレタリアート? なんの世迷言だ。本当のことは、いやなことでもそうだと抑えるしかない。20年後ですけどね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Voyant,あるいは前衛(その1)

2008-12-07 21:47:33 | 歴史への視角
 今日の題は、弱いものいじめです。

 ん、そんな題か?
 といわれるとそうでもなくて、
 Voyantというのは「見る人」、ランボーのテーマです。預言者なんて訳してあったりすんのはいかがなものか。「見えないものが見える人」でしょうね。


 さて、ここんところ気になっている弱いものイジメ。

 弱いものなんかいじめてないよ、とこのブログの読者の人たちは言うでしょうが、
 高級官僚イジメに、ここんとこは大麻吸い者イジメ。裁判員? オッケーさ。悪いやつは罰を受けて当然。おれが裁いちゃるぜ。
 何かといえば、ブログ炎上。わたしんとこは炎上されないのはいいことか悪いことか。

 まあそういうことではなくて、シンプルにいってしまうと、人は弱いものイジメが好き。ほっといたらいくらでもする。
 違う? ここに来る人は例外が多そうだからねえ。
 では、人の9割は弱いものイジメが好き、ってことで。

 お客さんがなんと言おうと、日本の社会はそんなものさあ。
 日本では、共同的な規範が確立されている一方で、孤独の淋しさも悲しさも分からない。分かれば、一人だけの生き方を確立せざるを得ないってことですけどね。
 かくて、個人の生き方も確立させないまま、共同的な規範の緩まるところでは、したい放題に優越的自由を振るう、ということです。
 気になるなあ、弱いものがたかだか権力者や犯罪人である間は罪は軽いけどねえ、でも権力者も犯罪人も生きているんだよ、って、アナーキストで死刑論者の言い分か、と思われるでしょうか。

 いってるでしょ。食わなきゃこちらが死んでしまうにしても、喜んで1歳にもならない子豚を殺しちゃいけない。もちろんそんな牧畜業者はいない。みんな感情をなんとか殺して仕事をしている。しかし、そんなその他民間人がいるんじゃないか、ってことです。

 いやね、わたしも心が狭いから、権力者や犯罪者ならいいや、でも被支配者がもっと弱者だったらどうするの? ということでもあります。
 たとえば、日本国内黒人、21世紀以降、日本の共同体規範崩壊後に入ってきたアジア人ですね。(これも朝鮮人の既問題があるので、微妙な言い方ですけど。)
 なんとか朝鮮系・フィリピン系等の人たちの問題は、団塊の世代に続く世代が収めつつある。でも、またそんな日が、改めて来るだろうな、と思います。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運動は必ず支配者の弱い層に向かう

2008-11-24 22:08:51 | 歴史への視角
 さてさて、なんのお話をしましょうか、という、世の中みんなしょうがねえなあ、みたいな心持ち。

 本は古本屋でしか買う必要がない、という私、山一つ越えた古本屋で(ってどんな川崎市だろうか)ちょっと掘り出し物を買ってまいりました。小林良彰「現代革命への構想力」。別に普通の学者ですけどね、同志社大学とかの元教授。慶応大学に同じ名前の(どうでもいい)政治学者がいて、ネットで叩くとそればっかでめげますが。
 ま、この本は、フランス革命史家が若気の至りで書いてしまった本なんですが、マルクス主義者じゃない革命志向家なんで、いくつも初聞きのことが書いてあって面白い本で、といっても、4割は根拠がなくてなんですけどね。ま、社会科学者ではなく歴史家だから大目に見て。

 その中に、「運動は必ず支配者の弱い層に向かう(私翻訳)」というのがありまして、
 『へえ、経験上そうだけどねえ、、、そう、理論化できないのは、私の弱点とは認めるけど、でもいいやこんなテーゼ』と無視した知見。

 で、話は例の前回非難のバカおやじ。
 ガキと思ったらいいオヤジで、情けないったら。いつまでガキなんだ。
 で、このテーゼですよ。
 庶民の刃は『必ず支配者の弱い層へ向かう』んですよね。

 今日のgooのニュースですと、一億円以上の金融資産者が147万人ですって。87人に1人、ってどうゆう計算か知らないけど、私が言ったんじゃないからまあいいや。ほんとは147万人もいるってところが眉唾だけどね、私も所得平均以下だから貧乏人の世間知らずかも知らない。
 で、オヤジ、何やって暮らしてたか知らないけど、カネがあったら気違いでも人殺しなんかしないんだろ。
 147万人殺せよ。
 いや、いまどきそんなことをいうと、警察が来ますよね。じょーだん。
 問題は、147万人を作ったのは誰だってことです。
 いかに高級官僚が日本を操ってるかのように見えても、実は高級官僚でさえ何もしてはいない。
 しているのは無能に見える自民党と、静観してるかのごとき資本家層です。
 どうしてそんなことがわかんないのかなあ、、、というよりもわかってるけど手を出せない。手を出せないから分かっていないフリをする。
  そんなこと理論化してもしょうがないしねえ、、、。常識は常識でいいんですよ。そんなものは現象的な社会学でいい。100年来、 現象しか語らなかった社会学で十分。私の出る幕ではない。

 でね、そのまんまオヤジも闇に消えてれば力になったわけですよ。なーに、自首しちゃったりしてさあ、どーしようもないガキだね。って、もちろん、死刑が当たり前。私は死刑論者です。人、殺したって15年いれば、また青空の下さあ、なんてありうるわけないでしょ。
 もとい。理論の話でした。
 理不尽でも何でも、やったもの勝ち、はやしたもの勝ち。
 
 世の中、立派な人もいまして、朝日新聞によると、稲葉圭信さん。宗教社会学者とか。
『一方で他人ことを考えるホームレス支援者がいて、他方にホームレスを虐殺する思いやり欠如者がいる。これをもって「思いやり格差社会」という』のだそうです。こうゆうのを虐殺というと、アウシュビッツの形容詞がなくなりますけどね。いや、形容詞だけの話で、お気持ちは同感。同感だけど、不信感を持つというだけで。
 ま、とにかく、彼氏によれば、この時代に抗すには、日本の思いやりの精神的伝統を掘り起こせばいいんだ、今の価値観の衝突をよいチャンスとして捉えればいい、んだそうで。
 社会のことを語れば社会学者になれるというわけではないんです。
 こんな学者の言論は何の力にもならない。だから私にどうしろ、っていうの? 私はいい人間だからわかりますよ。それで、小泉某に何しろっていうの? お前がいい嫁さん世話してくれるの?
 人の行為に関連しない言論は、傷の舐め合いにしかならない。それで、この世に傷ついたいい人たちの心が休まるのなら、かまいませんけどね。

 残念ながらか、してやったりか、言論が力となるのは、その言論が人間の行為の将来を提示するときに限る。
 かくて権力者の言論と、対抗権力の行使を訴える言論に限り、世の中では力を持つ、あるいは、イデオロギーの資格を持つことになる。もちろん実力行使もね。
 その他のは? わたしども、自称社会科学者の理論は?
 ただの慰みさあ、といっておきましょ。ボディーブローは後で効く。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国家のディスアドバンテージ

2008-09-07 21:47:38 | 歴史への視角
 一種、前回の追加。

 住友化学「オリセット・ネット」
 かなり前、Yahooで見ただけですけどね。マラリアから子供達を守れるという、要するに殺虫剤付き「蚊帳」。
 大企業でもこうゆうのを作る人は一人ですが、じゃあ、国にいるかといえば、そんなもんいない。気持ちはあっても開発工程がない、あるいは外注するほどの予算持ちの権力者のことをいえば、権力官僚はそんなことは考えも及ばない。
 さてところで、中零細企業でそんなことができるかというと、それは社長でなければできない。
 さらにところで、こうした事象は、現在において評価される現象であるだけで、大企業なり中企業社長であるとはいえ、そこで儲けなくともかまわない、という独占のアドバンテージは、世界的には慈善行為なら無駄遣いしてもいいよ、という欧米資本主義価値観に基礎付けられている。慈善行為は彼らには税金だからね。一方、日本企業は別途税金を払ってるのに慈善行為もやってるという、それなりのもんかも。独占である間はね。
 いいたいのは、国家ではできないこと、マルクスが夢見た、人間が人間的意思を実現しうる共産主義第一段階的国家でもできないこと、国家官僚が、職務構造上考えられないこともある、ということで。
 世の中というのはびみょうなものです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国家権力のアドバンテージ

2008-09-07 21:47:03 | 歴史への視角
 前回の続きで。

 さてはて、ここリベルタリアン、またはアナーキストのブログで、現行体制を前提に革命がどうのというのもなんだか、とゆうものみたいですね。本当はそんなことないんですけどね。私は昔から穏健派ですし。

 で、革命、つまり全ての差別・被差別・平等、その他を解放させる契機とは、常に、別の選択肢の中で、生存することができるか否か、ということにあります。
 資本主義社会の革命で、資本主義的分業労働者が飢えて人口を減らすか、持続的に「国民一般」となるかも、当然、それによる。
 こういうシンプルな話を自称『思想家』は知らないんですよね。
 まあ、それもいいことなんでしょう。知ってると奥歯に物が挟まりますから。自分だけが正しいと思わない限りは。

 国家は、その武力(=暴力=権力)によって、その時点での生産力を使って思い通りのことができるものです。
 それを変革する武力革命の前提は、平民的武力、つまり常備軍の存在、そして生産関係的必要ですが、ここで生産関係的必要は、革命後の社会をも規定するわけです。
 前回もいいましたが、後進国のほうがかえってよいことには、統御する生活水準が少なくていいことです。
 食料といくつかの工業製品。インフラ。これで済めば話は楽です。そこに従事する人間たちのみ考慮すればよいし、いったん権力をとってしまえば無視することさえできます。しちゃだめだ、っていっても聞く奴らじゃないんですし、これが。

 先進国ではそうはいきません。つまり、「比べてみれば先進国」ではなくて、絶対的先進国、というものがあるんです。
 先進国では、いくつもの工業と、足りない農業製品を買う他国マネーと、なによりも役に立たない第3次産業労働者への公平的消費物資の配布をシステム化しないといけない。
 現行の左翼の圧倒的に情けない理論水準、というよりも無理論の同好会のレベルでは、会結成後50年経ってもそんなことは頭の隅にもないようですが。
 そんな困難な状況で、「生産点の奪取」などというスローガンには意味はありません。先進国では、まずは国家武力を手にする必要があるのです。
 アナーキスト諸君もそこはわきまえなければいけない。まあ、遊びでアナキストをやっている諸君はどーだっていいですが。
 マルキスト諸君も、アソシエーションはいいが、それで革命ができると思ったら大間違いです。
 さらに、議会主義者の諸君も、だからといって議会主義で政権が取れると思ったら大間違いだ、とも言っておく必要がある。

 どうしろと、いうんじゃい、というところですが。

 いっているのは、われわれは、過渡期社会と、革命と、革命運動とをきちんと分ける必要がある。
 第1に、過渡期社会では、アソシエーションもあるだろうしアナーキスティックな権力制御もありうるだろう。しかしまず革命により国家権力を奪取する必要がある、ということです。
 第2に、しかし、爛熟期資本主義社会においては、戦争だ、革命だ、というお題目ではなく、人民全体の生き死にをどう制御していくか、というイメージを出さずに、デモごとき以外には、誰も動くものではない。それが持てない諸君らは、単に、遊んでるだけだ。
 さらに第3に、しかし、革命運動とはもちろん選挙投票ではない。生産点の奪取には意味はないが、生産点をわが手に、と「言う」運動には意味がある、ということです。

 せっかく、与党も日本のお飾りになるまで凋落したところ (日本を日常動かしているのは官僚と経済界、という構図がはっきりして、社会科学学生は勉強しやすいですよね。もちろん、官僚は、武力を動かすまでの政策判断はしませんが)、
 政権を取ろうったら、インテリなだけじゃだめすよ。民主党や社民党のことですが。普通の人の志向を組み込まなきゃ。民主党的小泉とか、社民党的小泉とかね。別に支持する気はありませんので、深くは言いませんが。
 共産党も今までの政治主義(=政治権力をもてあそぶ人間が、理屈を真に受けて近寄ってきた善良な人たちの肉体力だけを吸い上げてあてにして選挙運動に駆り立てる方法) のままじゃどうしようもなかったですが、ここんとこ、時代でしょうかね、善良な人も力を伸ばしてきたようで、とゆうよりは、年寄りが引退してきたようで、それはそれで。

 ま、どーでもいいんだ。とりあえず。
 大衆が動くにはまだ早い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする