リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

専制:その後

2009-08-06 21:31:36 | 歴史への視角
 こんばんは。昨日は、酔言で3つは多すぎましたね。舌足らずすぎ。
 ちょっと注を加えないと、と思いまして、昨日の(その1)の追加です。同じように酔っ払ってますけどね、というか同じようにしらふというか。

 正直者の社会学者への対比の(嘘つきの)政治学関係者というのは、つまり、そこから科学が展開されると思っていたぞ、社会学者ならそうだから。でも政治学関係者というのは言いっぱなしで終わっていいんだな。という、うらみつらみですね。ま、誤解といってもいいけど、そんな誤解を引き出すような学者のような書き方はよせ、というわけです。
 何の体系もない学問であれば、シンプルにいいなさい。

 ちなみに、わたしが「専制」を説明するなら、
1 個人による権力独占 と
2 その世襲制
 を特徴とする国家権力の状態です。
 それ以上は科学としては不要なのです。

 身分がどうのってバカ言うなよ。支配層と人民がくっきり割れるなどというのは、ただの歴史的一般支配状況じゃないか。

 まあ、上記の規定では歴史的概念としては不十分だ、とかいうやつもいるんでしょうが、われわれ個人行為者は、日常生活の科学者であっても断じて歴史家などではない。歴史概念などいくら並べてもそれは因果連関の科学ではない。記述の学問に過ぎません。記述の学問といえば聞こえはいいが、平たく言えば、年寄りの昔話ですね。「昔こんなことがあってのお。違う違う、そうではないぞ。その頃の王とはのお、、、」 お疲れ様です、長生きしてください。

 ついで、ケチを受けることを恐れての定義言語量の増加は、やはり行為者人間を科学から引き離すものです。
 定義量の豊富さは、そこから説明される要素・要因・契機をその中に含んでいるかによります。それらを含む必要がなければ、単純こそ命です。
 
 もちろん、吟味された文章は、そのときは読んで腑に落ちるでしょう。私も幼少の頃は好きでしたから分かります、というのは、たかだかそんなレベルだ、といってるだけですが。
 しかし、腑に落ちた人間は、実際は現実を何も理解してはいません。彼が理解したのは、ただ、その文章にすぎない。
 一方、科学とは新しい現実を、行為者の頭に保有されている概念で、理解し、将来を予測するものです。我々行為者は、そのために、概念のイメージを頭に収めなければいけないし、そのためには、概念は、シンプルに頭にイメージをひきおこすものでなければならない。また、頭に収めればそれ以上の定義など、不要なのです。

 ウェーバーの「理論」なるものが現実には誰にも使えてこなかった「現象的な」理由はここにあります。
 
 で、お前の言うのは役に立つのかって? 現に、今、独裁過程から3桁の世襲を迎えることの表現に適切な言葉として使えるんですから(ちょっと薄いですけどね)。自称政治学では、まだ北朝鮮は独裁ですね。それでは独裁過程など説明できない。権力が3世代続きました、って記述するだけですよ。まあ、説明したくもないんでしょうが。
 
 ちなみに、「政治学」的専制概念って人民のことを考えないんですよね。そんな、王が、原始時代以外に存在できるかよ。想像力がなさすぎるよね、っていうか、そんなことも分からず生きれてるってのも、社会適応力がないっていうかね。(その意味では私の上記定義の「個人による」も誤解を与えますが、人民のことを考えない統治がありうるなどと思うのが、ハナから馬鹿だって) 若い人たちは、この見方だけはやめなさいね。
 と知るだけで、政治学4単位あげますから。

 (P,S 私はアフリカの新興国のごとき統治なき国家(確かに人民のことは考えないように見えますしね)については、国家ではない、といっております。まあ、微妙ですけどね。人間社会が分かっていれば、表現は後からついてくるものです)

p.s.8月10日,gooの表紙に専制問題がでてました。李英和 関西大学教授とか。
   あぶないあぶない。こんなレベルのことで真似されたと思われたくないやね。
   なんでも早いもん勝ちだね。
     もっとも、どんなレベルでも、あえて真似するほどの人間はいないけどね。
 
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