平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「竹下村誌稿」を読む 315 産業 11
朝から快晴。少し寒いくらいだったが、午後、思い付いて一時間半ほど散歩した。大代川を下った先に、蔦がからまったと言うより、蔦に飲み込まれたように見える一軒の家を見掛けた。おそらく無住になってから長いのだろうが、中に何が住むのか、近所の人も、見ていて怖いのではなかろうか。
一昨日購入した渋柿、950円で20個、昨夜加工して、合計239個となった。たくさん作って、家の中、干柿だらけと思われるかもしれないが、知人に次々にあげるので、まだ手元にはそんなに残っていない。
夜は寒くて、初めて石油ストーブを点けた。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
本郡茶業組合にて、明治四十年より大正元年まで、五ヶ年間調査せしと云う、上中下、三等の、茶園一反歩に対する収支計算の内、中等部分を抜載すれば以下の如し。
中等茶園壱反歩収入
生葉量 単価 価額
一番茶 80貫 340厘 27.200円
二番茶 45貫 300厘 13.500円
三番茶 35貫 290厘 10.150円
計 160貫 50.850円
中等茶園壱反歩支出
員数(男女共) 単価 価額
耕耘人夫賃 7.0人 350厘 2.450円
施肥人夫賃 6.0人 450厘 2.280円
一番茶摘賃 12.5人 500厘 6.250円
二番茶摘賃 8.0人 430厘 3.440円
一番茶摘賃 7.0人 430厘 3.010円
肥料代 15.000円
計 43.0人 33.550円
収支差引残金拾七円参拾銭
ここに茶業の歴史に於いて特筆すべきものあり。本郡牧野原開墾事業にして、茶樹の栽培これなり。今、当時の記録を写して、その事情を明らかにせん。明治十一年、鳳輦巡幸あらせられし際、牧野原開墾率先者たる新番組に対し、恩賜あり。その際、岩倉右大臣の達書(たっしがき)と、従二位勝伯、開墾の起源を述べたるもの、実に左の如し。
※ 鳳輦(ほうれん)- 屋形の上に金銅の鳳凰を飾った輿。天皇の乗り物の称。
その方ども、巳己(明治二年)以来、拓地のことに尽力し、同志戮(あわ)せて勉励し、牧野原開墾候儀、その方ども率先の功、少なからず奇特に思し召され、同士中、元金(もときん)千円下賜候こと。
明治十一年十一月四日 右大臣 岩倉具視
(勝海舟の「牧野原開墾起源」の文は次回)
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