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「竹下村誌稿」を読む 315 産業 11

(蔦に飲み込まれた家)

朝から快晴。少し寒いくらいだったが、午後、思い付いて一時間半ほど散歩した。大代川を下った先に、蔦がからまったと言うより、蔦に飲み込まれたように見える一軒の家を見掛けた。おそらく無住になってから長いのだろうが、中に何が住むのか、近所の人も、見ていて怖いのではなかろうか。

一昨日購入した渋柿、950円で20個、昨夜加工して、合計239個となった。たくさん作って、家の中、干柿だらけと思われるかもしれないが、知人に次々にあげるので、まだ手元にはそんなに残っていない。

夜は寒くて、初めて石油ストーブを点けた。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

本郡茶業組合にて、明治四十年より大正元年まで、五ヶ年間調査せしと云う、上中下、三等の、茶園一反歩に対する収支計算の内、中等部分を抜載すれば以下の如し。

 中等茶園壱反歩収入
         生葉量     単価       価額
  一番茶     80貫   340厘   27.200円
  二番茶     45貫   300厘   13.500円
  三番茶     35貫   290厘   10.150円
   計     160貫          50.850円

 中等茶園壱反歩支出
         員数(男女共) 単価       価額
  耕耘人夫賃   7.0人  350厘    2.450円
  施肥人夫賃   6.0人  450厘    2.280円
  一番茶摘賃  12.5人  500厘    6.250円
  二番茶摘賃   8.0人  430厘    3.440円
  一番茶摘賃   7.0人  430厘    3.010円
  肥料代                  15.000円
   計     43.0人         33.550円

 収支差引残金拾七円参拾銭

ここに茶業の歴史に於いて特筆すべきものあり。本郡牧野原開墾事業にして、茶樹の栽培これなり。今、当時の記録を写して、その事情を明らかにせん。明治十一年、鳳輦巡幸あらせられし際、牧野原開墾率先者たる新番組に対し、恩賜あり。その際、岩倉右大臣の達書(たっしがき)と、従二位勝伯、開墾の起源を述べたるもの、実に左の如し。
※ 鳳輦(ほうれん)- 屋形の上に金銅の鳳凰を飾った輿。天皇の乗り物の称。

その方ども、巳己(明治二年)以来、拓地のことに尽力し、同志戮(あわ)せて勉励し、牧野原開墾候儀、その方ども率先の功、少なからず奇特に思し召され、同士中、元金(もときん)千円下賜候こと。
   明治十一年十一月四日      右大臣   岩倉具視


(勝海舟の「牧野原開墾起源」の文は次回)
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