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「竹下村誌稿」を読む 321 産業 17

(見尾火燈明堂、11/28撮影)

前回の「古文書に親しむ」(経験者)講座で読んだ、「篝火願書写」に出て来た、御前崎に設置されていた燈明堂が、御前崎灯台のすぐそばに、再現されている。今は透明なガラス戸が嵌っているが、当時風の吹く日は障子戸を閉めたのであろうか。確かに、油灯では沖から見えるかどうか、頼りない。

和室の蛍光灯、40年以上使ってきたが、スイッチが壊れたので、器具さら換えて、LEDにすることにし、吉田のアトム電機に注文して来た。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

      第五節 蚕  業

蚕業(さんぎょう)は由来極めて古く、これを詳らかにし易からざるも、本村に在りては従前は畦畔または山野に自生する桑葉を用いて蚕児を飼育し、僅々斗升の繭を獲て、自家衣服の料に供用し来たりしに過ぎず。固(もと)より産物として見るに足らず。想うに本村は已に茶業に全力を注ぎ、多く茶園を開きしを以って、桑園に供給する土地の乏しきと、飼育法の不熟練なるとにより、斯業発達の遅緩を致せるによるものゝ如し。
※ 畦畔(けいはん)- 耕地間の境。あぜ。くろ。
※ 蚕児(さんじ)- かいこ。
※ 斗升(とます)- 一斗を量る枡。(僅かな量を意味する)
※ 遅緩(ちかん)- ゆっくりしていること。おそいこと。


明治維新後、漸次発達の曙光を見、蚕室、蚕具及び桑園の改良を計り、同二十年頃には、稚蚕共同飼育をなし、また蚕糸業組合の設立もありて、当業者を指導誘掖せられ。同三十年より、近傍養蚕家数十人協同して、群馬県高山社より教師(戸坂定吉)を聘用し、毎蚕期四年間、温暖育飼育法の伝習を受けしより、飼育方著しく進歩し、爾来年々好成績を収め、失敗を招くものなく、逐年(ちくねん)発展を来たし、現時の状態に進みつゝあり。また蚕病予防の必要を覚り、蚕室蚕具は何れも、フォルマリン消毒を行い、蚕児の衛生上にも合理的となれり。
※ 稚蚕(ちさん)- 卵からかえった蚕の、第一齢から第三齢までをいう。
※ 誘掖(ゆうえき)- 力を貸して導いてやること。
※ 聘用(へいよう)- 礼を尽くして招き、取り立てて用いること。


本村飼育戸数八戸にして、掃立枚数平付十二枚とす。主として春蚕を飼育し、二化性、三化性は,飼育するもの少ないければ掲げず。大正五年春蚕の収繭、本繭十三石四斗、掃立一枚に付、一石一斗一升六合(玉繭二等繭を除く)にして、一戸平均一石六斗七升五合に当る。もし繭価一石金五拾円と仮定せば、七百参拾七円を受くべし。これを本県飼育戸数六万百戸にして、収繭九萬七千六百石、平均一戸一石六斗二升四合に較ぶれば、伯仲の間にありと云うべし。
※ 掃立(はきたて)- 蟻蚕(孵化したての蚕)を蚕座(蚕を飼育する道具)に移し、細かく刻んだ桑の葉を与えて飼育を始めること。羽ぼうきを使って、蟻蚕を蚕座に掃き下ろすことから、「掃立て」と呼ばれている。
※ 二化性(にかせい)- 昆虫が、一年間に二世代繰り返す性質。


按ずるに、本村の蚕業たる当業者の勉励により、春蚕の飼育は近来著しく改良を加えたれば、追々夏秋蚕の飼育も発展するに至るは、期して待つべしといえども、主として桑園供給地の乏しきは、将来に於いて、自然斯業発達の支障を来すべき原因ともなるべければ、この点に注意あるを要す。また大正七年より、近傍同業者協同して、浜名郡より教師(稲垣某)を聘(へい)し、春蚕条桑育の伝習を受けつゝありて、その成績頗る見るべきものありと云う。
※ 条桑育(じょうそういく)- 桑を枝ごと切って、そのまま蚕に与える壮蚕飼育法。
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