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「竹下村誌稿」を読む 313 産業 9

(散歩道のイソギク)

イソギク、去年も同じ花の写真を撮って、ネットで名前を見付けられず、確かブログには載せなかったと記憶している。今年は、何とか名前を知ろうと考えて、「白い縁取りの葉っぱ」で検索を掛けたところ、イソギクの名前に行き当たった。原産地日本、暖かい地方の海岸近くに自生している野草で、晩秋に小さな黄色い花を房状に咲かせる。海岸だけでなく、庭などにもよく植えられるという。今の季節、散歩道のあちこちで見かける。

御前崎市に保管する古文書の件、手続きがうるさいが、見せてもらえるらしいので、来週28日、池新田のSN氏と出向くことになった。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

      第四節 茶

       一 沿革及び生産

按ずるに、茶の原産地は印度なりとの説もあれど、明瞭ならず。往古、西南地方、即ち日向、肥後などの山合いに叢生せしこと、古書に散見せり。今も九州、四国地方の山林には天然生の茶を摘採する所あれば、我が国固有の植物たるや、疑いなきが如しといえども、今日植うる所の茶樹は支那より伝わりたるものなりと云う。
※ 叢生(そうせい)- 草木などが群がり生えること。

延暦(782~806)、大同中(806~810)、僧最澄、空海入唐し、茶種を携(たずさ)皈朝して、近江に植栽し、これを製造せしむと喫茶余禄に見えたり。弘仁六年(815)、詔(みことのり)ありて、畿内近江などの諸国に茶を植えしめ、これが貢献を命ぜられしより、漸く発達せりと云う。然れども、当時茶は、専ら上流社会、及び僧家などの饗応の用に止まり、未だ一般に普及するまでには至らざりしと見えて、延喜式、国々の貢ぎ物中、茶の事見えず。
※ 皈朝(きちょう)- 帰朝。

建久中(1190~1198)、僧栄西(千光国師)、再び茶種と製法を宋より齎(もたら)し来たり。僧明恵がその分送を受けて、栂尾(とがのお)に植えしより後、宇治にも移りて、宇治茶の名声を博し、民間一般に製茶を以って日用飲料として、これを愛用するに至りたるものゝ如し。降りて慶長(1596~1615)、元和(1615~1624)の頃には製茶を幕府に献せしこと、また個人間の贈答に茶を用いしことも、往々諸記録に散見せり。
※ 分送(ぶんそう)- 分けて送ること。
※ 栂尾(とがのお)- 京都市右京区の、栂尾山高山寺の周辺を指す地名。古くからの霊場で、畿内における茶栽培発祥の地。
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