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志太の杜見学会2

(敬満神社の拝殿扁額)

敬満神社の杜は、杉、ヒノキ、クス、シイなど針葉樹や常緑樹の大木が林立して、いつ見ても昼なお暗い森であるが、この夏の台風で、倒れた木があったのか、本殿にはブルーシートが掛かっていた。この夏の台風では強風による被害が思った以上に大きかったようだ。

敬満神社拝殿の扁額、「敬満神社」の文字の中に、よく見ると鳩が少なくとも六羽見える。こういう扁額のことを「鳩字の額」と呼び、長野の善光寺山門に掲げられている額は有名である。鳩字は八幡神社などで使用されるという。八幡宮と鳩の関係については、伝承として、前九年の役において、八幡神の霊験が鳩の飛来として示され、源頼義を勝利に導いたという「霊鳩の奇瑞」などがある。

熊野神社の八咫烏(やたのからす/三本足のカラス)、日吉神社の猿、春日大社の鹿、稲荷神社の狐など、神の使いとして、選ばれているが、八幡神社のハトもその類いのものなのだろう。

想うに、扁額の中に鳩が隠れていると聞けば、皆でそれを探そうと扁額を見つめる。結果、否が応(いやがおう)にも、「敬満神社」の名前が焼き付いてしまう。そんな効果を期待して、遊び心のある古え人が、発明した鳩字なのではないだろうか。

敬満神社の御祭神は、古くは「敬満神」とされる。「敬満」を、秦氏の遠祖、功満王に比定する説がある。この功満王は、仲哀天皇8年に渡来したという渡来人だという。「続日本後紀」遠江国蓁原郡の人として見える「秦黒成」の存在から、当地一帯に居住した渡来系氏族の秦氏が、その氏神を「敬満神」として祀ったものと考えられている。




(大楠神社の拝殿(上)と本殿(下))


一度、バスに乗って少し下ったところに大楠神社がある。明治の終り頃にあった、一村一社制により、敬満神社に合祀され、今はその境外末社となっている。小さな神社だけれども、延喜式に載る式内社である。

案内板によると、
昔、大井川の洪水で、楠の大木(太さ十抱え)が流れ着き、川の曲角に止った。里人はこのことを、国司を通じて朝廷に報告し、ただちに、倭直吾子篭が派遣され、里人と共に立派な船を仕上げ、 駿河湾から難波津(大阪)に廻して、 御用船となったという。里人は感激して、 船の御霊を祀り社を建立した。欽明三年(542年)の創祀と言われ、「延喜式神名帳」(927) に、敬満神社と共に榛原郡の五座に数えられる。(以下略)

大楠神社の足下には田んぼが広がっているが、かつてはこの境内近くまで、大井川の流れが来ていたのかもしれない。
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