goo

掛川市立図書館文学講座、蒲原・由比文学散歩

(旧五十嵐歯科医院)

恒例の掛川市立図書館文学講座の、「蒲原・由比文学散歩」があった。くじに外れていたが、欠席者がたくさん出て出席することになったことは書いたが、今日、朝から早くから掛川市のバスで出かけた。補助席が空いていて、満車というわけではなかった。蒲原・由比は何度も訪れたことがあり、珍しくもなかったが、何か新しい情報が得られるのではと期待した。

最初に訪れたのは蒲原宿の旧五十嵐歯科医院であった。二階の診察室などには歯医者らしい道具が色々置かれていたように記憶するが、今は診察治療用の椅子が一脚置かれたいるだけで、がらんとしていた。現在、建物を管理しているNPO法人の女性が案内してくれた。近江八景や富士と松原を透かし彫りにした欄間や、花鳥風月で四季を描いた襖、金箔に花を描いた天袋など、中々贅を尽したものに見えた。

裏庭の井戸には、大きな旧式の電動ポンプが乗っており、その奥に御蔵が二棟建ち、その向こうにはやゝ高い所に、患者のための宿泊施設まで備えられていたという。かなり遠方より治療にやって来て、日帰り出来ない患者のためだという。


(木屋の文書蔵)

ぽつぽつ来た天気模様に中、蒲原の古い街並みを歩き、広重の「夜之雪」記念碑や、なまこ壁の商家などを見ながら、木屋の文書蔵の見学をした。雨の中、蔵の外で、長い時間説明があり、蔵の中に入ってからも、熱心に案内して頂いたが、最高齢89才までいる年寄グループにとっては、ずっと立ったままでの見学は、中々の苦行であった。ほとんど限界だったとの声も聞こえた。

しかし、自分にはいくつかの発見があった。珍しい三階蔵で、四方転(しほうころび)という耐震工法で建てられ、安政の大地震にも耐えたという。四方転は23本の通し柱が中心に向けて少し傾けられた工法だと聞いた。

木屋は材木問屋で、富士川流域の天領の材木を一手に扱っていて、富士川から蒲原の港へ材木用の運河や堤を造ったと聞き、話が終ってから、二つの質問をしてみた。

富士川の渡しに舟橋があったのかどうかという質問には、朝鮮通信使などの特殊な通行に作られたことはあったが、何れも一時的なものであった。通常は渡し船が利用されたとの答えだった。

甲州の年貢米は富士川を舟で運ばれ、岩淵で陸へ上げられ、蒲原の港まで陸送、小舟で清水まで運ばれ、千石船などに載せ替え、江戸へ運ばれたというが、この運河を使えば速やかな搬送が出来たと思う。当時、そういう願いが出たことはなかったのだろうか。この質問には、確かにそのような願いが出たことはあるが、許可されなかったという。同じ天領の年貢米と材木、どうして使わせなかったのかという疑問は残るが、船と材木を通すとための、技術的な問題があったのかもしれない。


(東海道広重美術館の門)

昼食の後、東海道広重美術館を見学して、由比の街歩きの後、すっかり空の雲が払われた、夕日の中、帰路についた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )