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「竹下村誌稿」を読む 318 産業 14

(大代川のオオバン)

オオバンはツル目クイナ科オオバン属に分類される鳥類の一種。日本では夏季に北海道(夏鳥)、本州、九州で繁殖し、冬季になると本州以南で越冬する(冬鳥もしくは留鳥)。全身黒っぽい水鳥だが、くちばしと額が白いのが特徴。意識して初めて確認した。

午前中、磐田市歴史文書館に行き、NS氏に逢い、一時間ほど、明治の商家の日誌についてお話する。もう、日誌を読み進まれていて、今まで知れなかった新しい事実も発見されているらしい。日誌の続きのコピーを提供して帰る。NS氏が関与された「佐久間の民俗」という立派な本を頂き、また、企画展も見学して、お昼になってしまったので、帰って来た。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また、明治十三年、岡田(佐野、城東)郡長の公梓せられたるものゝ一節に、
※ 公梓(こうし)- 公の出版。

明治維新の初め、大井川の徒渉を廃せらるゝや、川越し人足百余名、ために活路を失せんことを恐れ、将に非挙に及ばんとす。金谷の人、杉本権蔵なるもの、性頗(すこぶ)任侠奮いて曰く、汝ら誤るなかれ。吾必ず汝らのために哀願することあらんとす。吾が命、苟(いやし)くも存ず。決して汝らをして飢渇せしむるなけんとす。則ち、自ら衆に代わりて官に哀訴す。官これを愍(あわれ)み、川越し百余名のために不毛の原野、二百四町歩余、金千円を下附し、開墾して産に就かしめんとす。池新田の人、丸尾文六、その他に諭(さと)して、そのことを担任せしむ。
※ 非挙(ひきょ)- よくない行為。非行。
※ 任侠(にんきょう)- 仁義を重んじ、困苦の人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る、自己犠牲的精神や人の性質。


この時、権蔵及び大塚信平、赤堀啓三、三人の引き受ける処、若干戸、杉本氏その人を率いて下附せられたる、日坂宿の北、官林に着(つ)かんとす。その力、作に堪えざるを恐るゝものには、毎戸金若干を与えて自営せしめ、原野は同士二名と共にこれを有し、家を挙げて該地に移居し、開墾に着手す。実に明治三年のことなり。爾来数年、茶の栽培に従事し尽す所、金一万余円、墾(ひら)く所、田八反、畑十四町二反歩、製茶産額四十本(明治十二年)ありしと云う。

また、丸尾氏は明治四年六月、川越し人足百名を率いて、初めて牧野原開墾の業に着手す。而して留まるを欲せざるもの六十七名、各々金拾円を分与して、故地に帰らしめ、残り三十三名の内、同氏の引き受ける所、十九戸、反別百二町余、ここに於いて資金を投じ、家屋を与え、農具を給し、農馬数十頭を蓄え、茶樹の培養に力め、畑二十一町七反七畝歩を開墾するを得たり。静岡藩これを賞して、上下(かみしも)一具を賜う。同七年、毎戸畑二反歩、宅地五畝歩を分給し、私有たらしめ、その堵に安んぜしむ。大凡(おおよそ)費やす所、開墾費一万余円、培養費八千余円、而して明治十二年に至り、製茶一千二百六十一貫、その価格二千三百八十円、耕作費・製造費二千円を引き去り、全く得る所、僅かに三百八十円なりと云う。
※ 堵に安んず(とにやすんず)- 人民が住居に安心して住む。安心して暮らす。

とあり、思うに今日、本郡が茶の産地として、名声全国に冠絶たる所以のものは、各地当業家の熱情に頼(よ)るは言うを要せず。而も明治革新の際、新番組と称する静岡藩士族中條金之助など二百八十戸が率先、牧野原(谷口原、仁王辻、萩間原)を開拓して、茶樹を栽培し、南北五里に亘り千五百余町歩の、所謂(いわゆる)牧野原の大茶園を作成せしに基由せずんばあるべからずといえども、抑々(そもそも)また丸尾、杉本二氏の如き斯界に貢献せしもの、果たして幾人かある。二氏の功また没すべからざるなり。
※ 冠絶(かんぜつ)- 群を抜いてすぐれていること。
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