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道聴塗説 その二 2

(裏の畑の雑草「ハコベ」の花)

冬枯れの、裏の畑で、今、緑がめだつ雑草に、小さな白い花が咲いていた。ネットで「雑草図鑑」で検索すると「ハコベ」という名前であった。正式には「コハコベ」、越年草で春の七草の一つであるという。色々な知識が入ってくる。

午後、「古文書に親しむ(経験者)」講座に行く。初年度も残すところ2回となる。3月の成果発表会の打ち合わせをする。発表会では学んだ中から「大井川川除御普請増永願書」を取り上げ、前回見学した堀本古文書館を紹介し、「聖牛」や「沈枠」などの設置例などを紹介する予定である。

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「道聴塗説 その二」の解読を続ける。仏教説話集のようなものだろうと考えていたが、仏教を正面から勉強した人が読むような、浄土宗、浄土真宗の理論書のようになってきて、実のところ、半分も理解できなくなってきた。しかし、これも江戸時代の人が読んできた本の一部であるには違いない。読み終えた部分は、まだ二割ぐらいの所であるが、頑張って最後まで読み切ろうと思う。

起信論に、事識見、業識見と申すことあり。事識とは万法は唯心なりと知らず。心外に実境を見て、計度分別するを云う。この事識にて、仏を見るは、八十老比丘の像など、凡夫、二乗の所見の応身なり。
※ 識見(しきけん)- 物事を正しく見分ける力。また、優れた意見。
※ 計度分別(けたくふんべつ)- 対象について分別心をもって区別を立て推量する心の働きをいう。
※ 二乗(にじょう)- 声聞乗 (しょうもんじょう) と縁覚乗 (えんがくじょう) のこと。前者は,釈尊の教えを直接聞いてこれをそのまま実践することであり、後者は単独で悟りを開く実践をいう。いずれも、大乗仏教では、二乗は成仏できないと非難されている。
※ 応身(おうしん)- 世の人を救うため、それぞれの素質に応じてこの世に姿を現した仏。釈迦など。


また業識とは唯心の外に実境なしと知る。十住已(以)上の菩薩の所見の報身如来、無分斉の色、これなり。されば、今の凡夫、臨終に来迎などを見るは、事識の境なり。ただこの来迎などに限らず、今日、眼前一切の境界を心外の法と認めて、違順愛憎するもの、皆な妄想なり。何ぞ来迎をのみ妄想と言わんや。
※ 十住(じゅうじゅう)- 菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第11番目から第20番目の位をいう。菩薩が信を得て進んで仏地に住する位をいう。
※ 分斉(ぶんざい)- もののけじめ。くぎり。
※ 無分斉の色(むぶんざいのしき)- 娑婆と浄土のくぎりのない、物質や現象。
※ 違順愛憎(いじゅんあいぞう)- 心に順うものには貪愛の心をいだき、心に違うものには瞋憎の思いをいだくこと。自分に従うものは愛し、心に違うものは憎むこと。


また/\、念仏三昧は見仏の法なれば、凡そ三種の見仏あり。一には、現身見仏、かの韋提(希)夫人の如きは、或は善導などの師、三昧発得して現身に如来を見給う。二には、臨終見仏、これ諸往生の如き、その相は往生伝などに載せたり。三には、彼土見仏、これは下輩の往生の類いなり。大経に、夢に彼仏を見ると説き給う。多くは胎生なり。
※ 見仏(けんぶつ)- 仏の姿や光、あるいは浄土のさまを、目のあたりに見ること。
※ 韋提(希)夫人(いだいけぶにん)-「観無量寿経」より。古代インドのマガダ国王ビンビサーラの王妃。
※ 彼土(ひど)- 浄土。
※ 胎生(たいしょう)- 四生(ししょう)の一。母胎から生まれるもの。人間や獣の類。
※ 摂(せつ)- 取り込む。
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道聴塗説 その二 1

(隣りの茶畑のスズメ)

雨降りだが、南風が吹いて気温がぐんと上った。関東では春一番が吹いたという。午後、駿河古文書会で静岡へ行く。

写真は一昨日撮った隣の茶畑のスズメ。カメラを向けるとすぐに飛び立って、なかなか撮れなかったが、カメラを変えて、少し遠くからでもアップで撮れるようになった。さすがにこちらを向いては撮らせてくれないが。

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今日より、「道聴塗説 その二」の解読に入る。

その二
問う。世に伝う。蜷川が臨終に貉(たぬき)の来迎を感ずと。これに依りて疑う。臨終の奇特も行者の妄想、倒見なるべし。もし(く)は、野狐精魅の類にはあらずや。
※ 蜷川(にながわ)- 蜷川智蘊(ちうん)。室町時代の武士、連歌作者。新右衛門親当 (ちかまさ) と称した。室町幕府に政所代として仕えた。和歌を正徹に、連歌を梵灯庵主に学び、一休に参禅。『竹林抄』の連歌七賢の一人。
※ 倒見(とうけん)- 真理にそむいた謝った見解。
※ 野狐精魅(やこせいみ)- 狐憑き、狐に取り憑かれた者。


答う。禅定の魔障、行者を惑乱すること、起信論などにも出たり。天台摩訶止観に、広く明かし給う臨終の倒見、或は狐狸の妖変、これまた例多し。然るに、念仏行者の信心、決定したるは、臨終に邪魔など、障礙をなすことは極めて無きことなり。何故ぞと言えば、兎も角も無し。ただ仏智の不思議なり。
※ 魔障(ましょう)- 仏道の修行の妨げをなすもの。また、悪魔。
※起信論(きしんろん)- 大乗起信論。馬鳴(めみよう)著と伝わる、大乗仏教の代表的概説書。
※ 摩訶止観(まかしかん)- 隋の天台大師智顗が講述したものを、門人の灌頂が筆録した書。法華経実践修法の解説書、理論書。
※ 障礙(しょうげ)- 障害。妨げ。仏教では、悟りの障害となるものをいう。


蜷川が如きは、聖道自力の機感なれば、他力の例に非ず。如何なる天魔精魅にても、諸仏を惑乱すべき道理なければ、弥陀聖衆の来迎に障礙なき事も勿論なり。仏智を信ずるものは仏心なり。平生には摂取護念を得て、臨終には来迎引接を被るなり。
※ 聖道(しょうどう)- 聖道門。自ら修行して現世において悟りに到達しようとする自力の宗門。
※ 機感(きかん)- 仏が衆生の心の働きを感じ取って、それに対応すること。また、衆生の心の働きが、仏の導く力を感じること。
※ 精魅(しょうみ)- 妖怪。
※ 護念(ごねん)- 仏・菩薩が行者を心にかけて守ること。
※ 引接(いんじょう)- 仏・菩薩が衆生をその手に救い取り、悟りに導くこと。


但し、理性を沙汰する人は、来迎などを妄想虚見と申す事、世に多き例なり。或は人間、目前の事を実と執して、神仙の説をも疑い、まして地獄も天道の類いも知れぬことに思う類いは、ともに大道を論じ難し。
※ 大道(だいどう)- 人の行うべき正しい道。根本の道徳。
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道聴塗説 その一 10

(日向ぼっこのムサシ)

3月の陽気で、ムサシは外に出してもらい、お気に入りの石のベンチで、自然に目蓋が下りてくる。これから杉花粉の季節が始まる。

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「道聴塗説 その一」の解読を続ける。今日で、その一を読み終える。

然るに、金釜や織女を得んと心掛けて、父母に事(つかえ)るは、父母を思うにはあらで、自分の欲を遂げんとするなれば、如何ほど粉骨しても、金釜も織女も感ぜざるなり。臨終の奇特等を望むもこれに同じく、如来他力の不思議を外にして、自力の念仏の功を積む故に、念々の称名は凡情の分別に隨すれば、却って臨終も思うようにも無く、奇特も現せざるなり。
※ 凡情(ぼんじょう)- 凡人の抱くようなつまらない感情。

これ臨終の正念も、奇特も、他力に依って得べきことを、凡情のはからいにて、巧み求むる失なり。また流義に、来迎を頼まず、臨終正念を期さずと申すことを、悪しく
心得て、報土の往生には来迎などなしというは、大なる謬(あやま)りなり。

黒谷(法然)も、諸行往生には化仏の来迎、念仏往生には報仏の来迎と、仰せられたり。念仏は経に無上大利と説き給いて、来迎に限らず、無量の功能を備えたれば、現世の利益も、摂取不捨も、来迎も、正念も、皆な念仏に備われり。
※ 化仏(けぶつ)- 仏や菩薩が、衆生を救うため、その機根に応じて現れる仏や菩薩、また明王となった姿。
※ 報仏(ほうぶつ)- 報身仏。阿弥陀仏・薬師仏のように願を成就して仏身を得た仏。
※ 無上大利(むじょうだいり)- この上もなくすぐれた、大きな利益(りやく)。
※ 無量(むりょう)- はかることができないほど多いこと。
※ 摂取不捨(せっしゅふしゃ)- 仏がこの世の生きているものすべてを、見捨てず、仏の世界に救い上げること。


この一期の身は、前業の所感にて、垢障に覆われ、一切の利益現れずとも、念仏の行者は、諸仏、菩薩、諸(もろもろ)善鬼神も、隨い遂げ、擁護し給うことなれば、臨終の一瞬に至って、その平生、付き添い給う験(しるし)を顕わすこと、経釈に誠説ありて、往生の現証とするなり。
※ 一期(いちご)- 生まれてから死ぬまで。一生。臨終。最期(さいご)。
※ 前業(ぜんごう)- 前世で行った善悪の行為。
※ 垢障(くしょう)- 煩悩悪業の障り。
※ 善鬼神(ぜんきしん)-「鬼神」とは、超人的な能力をもつ存在の総称。仏道修行者を守護する善鬼神と、生命をむしばむ悪鬼神に大別される。善鬼神としては、梵天、帝釈天、竜王、夜叉、阿修羅など八部衆など。悪鬼神としては、羅刹など。
※ 経釈(きょうしゃく)- 経典とその註釈書。


ただ流義にはこれ等の奇特を心に掛けずして、往生をのみ一定と喜び、浄土に至って無上菩提を証し、十方衆生を済度せんことを、深く信ずるなり。かく往生を得たることは、行者の身には疑わねども、いよ/\相違なきことを仏の方より現証に示し給う故に、臨終の正念などの奇特を現わし給う。
※ 無上菩提(むじょうぼだい)- もっともすぐれた悟りのこと。

これ凡慮の兼ねて期すべきことに非ず。仏智不思議の致す処なり。これゆえに、曇鸞大師を始め、念仏の祖師たち、皆々臨終に霊相を感じ給う。開山(親鸞)の臨終、頭北面西の威儀、これ正念往生の験、悉く仏智不思議なり。
※ 凡慮(ぼんりょ)- 平凡な考え。また、凡人の考えること。
※ 仏智(ぶっち)- 仏の欠けたところのない智慧。
※ 曇鸞大師(どんらんだいし)- 中国南北朝時代の僧、中国浄土教の開祖。浄土宗では、「浄土五祖」の第一祖。 浄土真宗では、七高僧の第三祖。
※ 頭北面西(ずほくめんさい)- お釈迦さまの涅槃のお姿。頭を北にし、顔を西に向けた寝相。
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道聴塗説 その一 9

(南アルプス前衛の山々)

当地は、このところの打ち続いた寒さでも、雪を見ることはなかった。子供たちはバスを仕立てて雪見遠足に行くという。そんな暖かい地であるけれども、雪を見ることはないというのは間違いで、当地からも冬には雪が見えている。富士山を引き合いに出さなくても、遠く見える南アルプス前衛の山々は、この時期、雪に覆われている。大代川の土手に出て、ちょっと目を凝らせばそれが見える。

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「道聴塗説 その一」の解読を続ける。

往生礼讃の不相続念報仏恩ゆえと、雑修の失を明かし給うに反して、相続念報仏恩の専修の旨を勧め給う。報恩と申す時は、一念よりは多念は優れて、しかも一念も報恩なれば不定の念仏に非ず。その多念も勝れて、多念義の失なし。何ぞなれば、一念も多念も報恩と名づく。これ共に往生の決定するに付いて、仏恩を報ずるなり。
※ 往生礼讃(おうじょうらいさん)- 善導大師の作。「一切衆生を勧めて、西方極楽世界の阿弥陀仏国に生ぜんと願ぜしむる六時礼讃の偈」という意味の偈文。略して「往生礼讃」とも「六時礼讃」とも「礼讃」ともいう。
※ 六時礼讃(ろくじらいさん)-中国の僧・ 善導の「往生礼讃」に基づいて1日を6つに分け、誦経、念仏、礼拝を行う。
※ 偈文(げもん)- 仏・菩薩を称えた語句。
※ 雑修(ざっしゅ)- 念仏だけでなく、いろいろ行業をまじえて修すること。


その報恩は行者の志に一念は浅く、多念は深し。故に勝れべし。譬えば、孝子、嫌ほど粉骨して、父母の恩を報ずとも、報じ尽くし難きなり。それを報じ尽くさねばとて、父母の遺體なれば、子に非にはあらず。念仏の行者も往生の遺體をうけたれば、仏子に紛れなし。報恩の念仏は多少ともに往生の遺體の恩を報ずる、仏子の孝道なり。
※ 仏子(ぶっし)- 仏教を信ずる人。仏教徒。仏弟子。

その孝道に付いては、薄きよりは厚きを勝るとするは、今の念仏報恩の行も、少念よりは多念を勝ると申すべし。されば懈怠の機にも、報恩の念仏には、少念も多念も同じと云って、報恩は少念にても足らぬと思い難ければ、自然と称名を相続すれば、懈怠をも除く理(ことわり)なり。これ多念を存すれども、往生不定の失なし。また一念往生と信ずれども、一念義の失なし。

元祖(法然)より相伝の唯行は、開山(親鸞)の唯信にある旨を会得すべし。さてまた報恩の念仏は、二六時中に申しても、これで仏恩を報じ尽くすと申すことなければ、功に募り、誇る心も起こらず。至孝の人の父母罔極の恩を思う如くなれば、自然に臨終正念、来迎の奇特などをも現するなり。
※ 罔極の恩(もうきょくのおん)- 両親から受けた報いきれないほどの恩のこと。
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道聴塗説 その一 8

(庭のビオラ)

「古文書に親しむ(経験者)」講座の教材、半年分のコピーを取らせてもらってきた。いよいよ、2年目に突入の準備である。

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「道聴塗説 その一」の解読を続ける。解読よりも、意味の理解が難しくて、苦労している。昔、仕事上でお付き合いのあった方で、最晩年に、今、お経を読んでいると話し、その面白さについて話してくれた方が2人居た。その両者ともに、60代の若さで亡くなった。

「道聴塗説」を読んでいて、二人の方の話していた意味が少し分るような気がした。「来世がある」という前提ではあるが、ここで展開される理論が大変論理的であることに気付く。宗教心はなくても、その論理的な部分がお二方の琴線に触れたのではなかったか。今はそんなことを考えながら、何とか理解したいと苦闘している。

流義に本願の始末を聴受して、一念帰命の御約束を申すを、最初の一念と名づく。その時に命終すれば、臨終の一念と申すものなり。されば、最初の一念と、臨終の一念と、別體に非ず。また平生往生と臨終とも、行者の寿命の長短に付いて、名を分かつなり。

然るに、臨終の正念を期して、往生と合点して、その臨終正念を願うて常に念仏すれば、平生の念仏をば、往生不定の思いにて申せば、疑惑の念仏になる。これ多念義の失なり。また最初の一念を往生と心得て、その後の念仏は往生の料には入用(必要)になければ、ただ報恩(恩返し)と心得て申すは、一念の後の念を無益に思う義なれば、一念義の失となるなり。
※ 正念(しょうねん)- 極楽往生を信じて疑わないこと。一心に念仏すること。
※ 多念義(たねんぎ)- 浄土宗の宗祖である法然の門人、長楽寺隆寛を祖とする一派の説く教義。終生念仏を続けることにより極楽往生できるというもの。⇔ 一念義。


これに、失を離れて、最初より臨終まで、念々の称名を決定往生と心得て、相続するを、元祖(法然)の正義とす。この念々決定の旨を、流義には報恩の念仏と名付く。報恩とは、往生を決定したる故に、仏恩を知りて報ずるなれば、毫髪ほども不定の心にては、報恩の義には非ず。
※ 毫髪(ごうはつ)-(細い毛の意から)ごくわずかなこと。ほんの少し。

さてこの報恩と決定往生と同じ旨(にて)、行者に就ては得失有るべし。一念も決定、二念も決定、乃至、一期の念仏みな決定往生にて、変わりなければ、勤めても、懈(なま)けても、往生に相違なしと心得て、懈怠は念仏に怠りあるべし。
※ 懈怠(けだい)- 仏道修行に励まないこと。怠りなまけること。。
※ 機(き)- 仏の教えに触発されて活動を始める精神的能力。教えを受ける人、あるいは修行をする人の能力・素質。機根。


それを相続せねば、往生はならぬ様に申すときは、多念は往生、少念は不定と申すになるべし。されば善道黒谷も遍数を定めて、懈怠を防ぎ相続をすすめ給う。その相続には報恩の念仏と心得たるは過失なし。これ開山(親鸞)の私意に非らず。
※ 善道(ぜんどう)- 善導大師。中国浄土教(中国浄土宗)の僧。「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立する。
※ 黒谷(くろたに)- 黒谷上人。法然上人のこと。
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道聴塗説 その一 7

(散歩道のキクザキリュウキンカ)

新しいデジカメの最初の一枚である。花の少ない陽だまりにひっそりと咲いていた。

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「道聴塗説 その一」の解読を続ける。

世に董永至孝にて、天の織女を妻とし、郭巨が黄金一釜を得たること、人の伝えるが如くなり。孝行をすれば金釜を得、天女を感すと心得て、父母に事(つか)える。志を外にして、金釜、天女を心掛けて、孝行を務むるは、臨終の来迎等の奇特を心に掛けて、往生の大利を喜ばず。
※ 董永(とうえい)-「二十四孝」の人物の一人。貧しくて父の葬式が出せない董永は、身売りをしてその金で葬式を出した。身請け主の所へ出向く途中、一人の美女が現われ、董永の妻となり、沢山の絹を織り、身請け主に届けて、董永は自由の身になった。最後に、妻は天の織姫であることを明かし、天に帰って行った。
※ 至孝(しこう)- この上もない孝行。
※ 郭巨(かくきょ)-「二十四孝」の人物の一人。貧しさのため母が食を減らすのを見かね、一子を埋めようと地を掘ったところ、「天、孝子郭巨に賜う」と書いた黄金の釜を発見した。
※ 大利(たいり)- 大きな利益。巨利。


念々の称名は、ただ臨終正念の金釜を期し、来迎の天女を望む故に、皆な自力分別の上にある念仏なれば、却って他力を障(さわ)りて、臨終も正念ならず。来迎の奇特も現せざるなり。何ぞとなれば、臨終の正念を期して往生を定むるは、平生の念仏に於いて、往生不定の心あるべし。
※ 正念(しょうねん)- 極楽往生を信じ て疑わないこと。一心に念仏すること。
※ 往生不定の心(おうじょうふていのこころ)- 必ず往生できるとは定まってはいないと思う心。


臨終の往生とは、生涯逆悪の人の臨終まで、仏とも法とも知らで、一息閇眼の砌(みぎり)に至って、善知識の勧めに依って、生来の罪障を懺悔(さんげ)し、一念、十念なりとも本願に帰命し、称名すれば、兼ねて如来の御約束なれば、即時に往生を定め給うを臨終往生と申すなり。
※ 逆悪(ぎゃくあく)- 主君にそむくなど、道理や秩序に反する悪。
※ 閇眼(へいがん)- 眼を閉じること、転じて死亡する意。
※ 善知識(ぜんちしき)- 人々を仏の道へ誘い導く人。特に、高徳の僧のこと。
※ 罪障(ざいしょう)- 往生・成仏の妨げとなる悪い行為。


この人、もし命延びて、一日、二日、乃至は年月を過ぎてもあらば、その臨終の一念
は、最初帰命の一念となれば、それより日を渉り、年月を送る際は、決定往生の報恩と心得て、念仏を相続すれば、また平生往生と申すなり。
※ 決定往生(けつじょうおうじょう)- 必ず極楽に往生すること。
※ 平生往生(へいぜいおうじょう)- 臨終を待つまでもなく平生に、如来の慈悲の働きが到り届いて信受せしめられた時に浄土行きが定まるという浄土真宗の教え。


読書:「再発!それでもわたしは山に登る」 田部井淳子著
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道聴塗説 その一 6、 および、地区の庚申さん

(竹下地区の庚申堂 / 旧デジカメ最後の一枚)

朝から、地区の年一回の庚申さんの行事を、当番の我が班で行うために、地区の無住のお寺に出向いた。晴天で風が止んで、日向にいるとあったかい日であった。六畳ほどの庚申堂で、近くの寺から呼んだ僧侶の法要のあと、近所のお年寄りの御詠歌があり、御札と供物を各戸に配って、地区の公民館で軽く昼食を取り、解散した。

庚申の行事を写真に撮るつもりだったデジカメが、レンズが動かなくなって潰れてしまい、夕方息子に同行を頼んで購入してきた。潰れたデジカメは2012年4月2日に購入した記録があるから、ほぼ5年活躍したことになる。新しいデジカメはキャノンのSX620HS 25Xという機種である。明日からはこのデジカメの写真になる。

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「道聴塗説 その一」の解読を続ける。

然れば、報恩の行には念仏の数に定めなければ、行者の量(人数)に随いてより相続する人は、八萬、十萬の功をも成すべし。流義に数を採らねばとて、念仏を嫌うことには非ず。却って念数の定めあるよりは、報恩の志は須臾も廃すべき道理なき故に、念仏は口に絶えまじきなり。

されば仏恩を知ること易からず。和賛(讃)に不思議の仏智を信ずるを、報土の因としたまえり。信心の正因、得ることは難きが中に、なお難しども、釈迦弥陀の慈悲よりぞ。願作仏心は得しめたる信心の智慧に入りてこそ、仏恩報ずる身とはなれ、とも仰せられたり。信心さえ退轉なく、報恩の行に油断あるべからず。これ信心を称名の本基とし給う故に、唯信を以って唯行と定むるなり。
※ 和讃(わさん)- 仏・菩薩、祖師・先人の徳、経典・教義などに対して和語を用いてほめたたえる讃歌である。
※ 報土(ほうど)- 生きとし生けるものが、みずからの行為によって、次の世に受ける国土。極楽浄土もその一。
※ 正因(しょういん)- 物事の直接的な原因。
※ 願作仏心(がんさぶっしん)- 仏にならんと願う心。
※ 退轉(たいてん)- 修行を怠り悪い方へ後戻りすること。


或は流義には頭数を嫌うとて、口称まで廃し、放逸に一生を過して、最初の一念に往生は定まれりと募り、臨終も悪相にて、奇特もなからんは、誠に成覚房一念義に同じして、大なる過失なるべし。また流義に、来迎を頼み、臨終を期して往生を定むることを嫌い給うも、念数の功に誇るを嫌うと同じ。
※ 口称(くしょう)- 口に念仏を唱えること。
※ 放逸(ほういつ)- 勝手気ままに振る舞うこと。生活態度に節度がないこと。
※ 募る(つのる)- ますます激しくなる。こうじる。
※ 成覚房(せいかくぼう)- 成覚房幸西。法然上人の門弟で一念義の創説者。
※ 一念義(いちねんぎ)- 浄土宗で法然の門弟幸西らの主張した教義。浄土に往生するには一念の信心だけで十分であり、多く念仏する必要はないとするもの。
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道聴塗説 その一 5

(庭の斑入りのアオキ)

家を建てた時に植えたものが、目立たずに庭の隅で生きている。このブログにも、初登場では無かろうか。冬の陽に照らされて斑入りの葉が輝いている。

故郷の豊岡市(兵庫県北部)は大雪と報道されている。今日の夕方で、積雪が75センチと聞いた。昔はそれほど驚くような積雪ではないと思ってしまうが、自分が言う「昔(子供の頃)」は、すでに半世紀以上前のことである。

午後、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。今日のテーマは今井伸郎、坂本龍馬を殺害したといわれる男である。龍馬殺害の京都見廻組の頃の話は論じず、戊辰戦争を五稜郭まで転戦し、戦後、牧之原に入植するまでの話であった。その数奇な運命は、いつかゆっくりとたどってみたい。

「駿遠‥‥」講座の前に、講師のS氏から、掛川のHさんから、お礼の電話があったと聞いた。Hさんの共著、「遠江三十三観音霊場巡りと奉額俳句・奉納連歌解読」という本を、「駿遠‥‥」講座で使っていただいたことのお礼だという。この水曜日、その時の「駿遠‥‥」講座の資料のコピーを、参考に差上げた時、講師の名前は教えたが、電話番号などは伝えなかった。おそらく金谷宿の事務局にでも聞いたのだろう。自分の著書が教材に使われたと聞くのは、おそらく嬉しいものであろう。

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「道聴塗説 その一」の解読を続ける。

さてこの報恩の念仏の遍数を定めず、窹寐相続するは、嫌ほど務めたりとも、功を募り、多念に誇る心なし。然るに念仏に頭数を取りて、一萬とも三萬とも定めは、念仏にこれほど務めたりと云う覚え有るべし。
※ 窹寐(ごび)- 目覚めていることと眠っていること。
※ 相続(そうぞく)- 次々に続くこと。
※ 頭数(あたまかず)- 人の数。人数。


その覚えあるは、念仏の功を積みたる多少に随いて、功の多きは、この功能にては如何(いか)でか、如来助け給わざらんやと思い、また功の少きは、懈怠の機を慚(は)じて、往生を危ぶみなどせんず。これ遍数の多少に付いて、或は貢高になり、或は怯弱になる故に、仏智の不思議に遠ざかるべし。
※ 懈怠(けだい)- 仏道修行に励まないこと。怠りなまけること。
※ 貢高(くこう)- おごりたかぶること。
※ 怯弱(きょうじゃく)- 臆病なこと。積極性のないこと。
※ 仏智(れい)- 完全円満な仏の智慧。


八助が忠節を務めて、忠節を知らざる如く、開山(親鸞)は仏恩報謝の称名と定めて、念仏の功に誇り、多念を募るを嫌い給う故に、遍数を定め給わず。ただ仏恩を深く思い、称名の功を積む覚えなり。自然に多念を相続する旨を勧化し給う。
※ 多念(たねん)- 数多く称名念仏すること。
※ 勧化(かんげ)- 仏の教えを説き、信心を勧めること。
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道聴塗説 その一 4

(土手のイヌフグリ)

花のない季節、何か咲いてないか、目を凝らしてみれば、小さな花、イヌフグリの花を見つけた。写真を撮り終えたところへ、一陣の冷たい風。最も整った一輪が、花の形のまま吹き飛んだ。

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「道聴塗説 その一」の解読を続ける。

今この八助を以って、往生の信行を喩(たと)うべし。まず八助が自心に忠節の覚えなきは、ことわり(理)なり。ただ、主人は奉事すべきものと、一向に思い入れてあれば、主人かかる困窮の上は、八助を離れて一日をも忍ばんようなんと、身に引き負いたる故に、如何様にもこの難儀を救わんと、二六時中に志を竭(つく)したれば、朝夕の粉骨の労を、これほど勤め、あれほど働きたり、と覚えしことなし。
※ 自心(じしん)- 己のこころ。
※ 奉事(ほうじ)- 長上に仕えること。(仕え奉る)
※ 一向に(ひたぶるに)- 一途(いちず)に。ひたすらに。
※ 二六時中(にろくじちゅう)- 一日中。いつも。(「四六時中」の、一日が12刻であった江戸時代の使われ方。)


もしその忠節に覚えあらば、世間の奉公人などに引き比べんに、食物さえ無ければ、給金は尚更なり。その上に、自身の日雇い賃銭も、一飯一肉にても、人より受けたる物、皆な主人におくることなれば、奉公は何とも申し分は無し、など申す意も起るべければ、暇(いとま)をも乞いて、他家に事(つか)えることもあるべし。苦労し覚えざるほどの事ゆえに、皆な年来を貧窮の主人に事(つか)えて、厭い離るゝ意なきなり。

これ開山(親鸞)の念仏の遍数にかかわらず、一向に信心を勧め給う旨と同じきなり。その信心は如来の本願を信じて、一度帰命し奉る上は、行者の身口意を如来に奉献して、己(おのれ)称礼念と思うべからず。八助が主人に身を任せて、主従の契約、いつまでも離れぬ事と思い入りたるに同じかり。
※ 遍数(へんすう)- 回数。数。
※ 帰命(きみょう)- (「南無」と同じ意)仏の救いを信じ、身命を投げ出して従うこと。帰依。
※ 身口意(しんくい)- 人間の行為すべてを、身体の働きである身、言語活動である口、精神作用である意、に分類したもの。三業(さんごう)。
※ 称礼念(しょうらいねん)- 口業の称名、身業の礼敬、意業の憶念。称名し、礼拝・憶念すること。


行者の、身を如来に任せて、後世の大事を御預け申す上は、仏恩の深重なることを感じて、報恩の称名を相続するは、粉骨摧(碎)身の務め怠るまじきなり。これは八助が主人を大事に思い入れて、粉骨の忠節を尽くすに似たり。
※ 深重(しんちょう)- いくえにも重なること。著しく大きいこと。

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道聴塗説 その一 3

(庭に緑で残るシノブ)

庭に、シダ植物のシノブがまだ緑で残っている。常緑ではなく、落葉するというが、どっこい、まだ緑で残っている。越冬できるのであろうか。注目してみたい。

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「道聴塗説 その一」の解読を続ける。

開山(親鸞)の御意は、聖覚法印唯信抄に専ら口称を示されて、題には唯信抄と標し給う。鈔の文の如くならば、唯行鈔と申すべきに、唯信と題し給うを、開山その旨を取りて文意を作り給い、専ら信心を示されたるを以って、心得べし。
※ 聖覚法印(しょうかくほういん)-鎌倉時代初期の僧。安居院 (あぐい) 法印。説経、唱導の名人で後鳥羽院の信任を得、安居院一流の基礎を築いた。天台宗の僧であるが、のち法然の門に入り『唯信抄』 (1221) を著わす。
※ 唯信抄(鈔)(ゆいしんしょう)- 聖覚著。法然の「選択集」を受けて、念仏往生は信心が大切であると述べたもの。親鸞は、これの註釈書「唯信鈔文意」を書いている。
※ 口称(くしょう)- 口に念仏を唱えること。


これ唯信、直に唯行なり。信心と口称と、須臾も離るゝべからず。されば、開山の唯信は、専ら称名にあり。元祖の唯行は専ら信心にありと知るべし。
※ 須臾(しゅゆ)- 短い時間。しばらくの間。ほんの少しの間。

近く譬えて申さば、駿城の伝馬町に甚兵衛と申すものあり。その家奴に八助とて、七歳の時より主人に養われ、今年四十九歳になれり。甚兵衛は近来、家産乏しく、居屋敷も借金の償いとなり、夫婦娘、三人ともに、親縁の家に寄食して、朝夕の貯(たくわ)うなり。困窮甚しかりき。八助はこれに従い、始終その志を変せず、粉骨摧(碎)身して、忠直の外に他事なり。
※ 家奴(かど)- 家の下男。奴僕。
※ 忠直(ちゅうちょく)-忠義で正直に仕えること。
※ 他事(たじ)- ほかのこと。その人に関係のないこと。余事。よそごと。


三人の主人をはごく(育)み、年月を渉(わた)る処に、この事、詳しく町御奉行所に聞え、遂に江府(江戸)に達して、今年宝暦丙子の正月、公儀より青銅五拾貫文を賜りける。

然るに最初に八助を御奉行所に召され、汝は甚兵衛に事(つか)えて忠節を致したる由、いかなる事を務めたるやと御尋ねありしに、八助は一向、何の忠節を致したる覚えなき由を答え申す。それより段々に町の宿老などへ御吟味ありしに、八助が忠節のこと、数ヶ条を書き付け出だせり。これに依りて、右の御沙汰に及べりとなん。
※ 宿老(しゅくろう)- 年をとり、豊かな経験を積んだ人。老巧の人。
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