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道聴塗説 その三 5、 3月を2月と早とちり

(散歩道のキズイセン)

会社の同僚だったⅠ氏から葉書が来た。水彩画の作品展への誘いであった。23日から一週間、島田の銀行のギャラリーだという。街のカルチャースクールに通っていたとは、初耳であった。自分の長兄が水彩画をやっていて、五重塔の絵を一枚所望していることは、何時だったか書いた。どんな絵を描いているのか、興味を引かれた。

早速、午後、会場へ行く。銀行の駐車場に車を停めて、ギャラリーに直接行ける入口まで行くと、シャッターが閉まっていた。なんだ、日曜は休みかと、駐車場に戻って、葉書には休みとは書いて無かったがと見直すと、何と29日までと書いてあった。今年は2月は28日までのはずだが、何でと、まだ気付いていなかった。

車を発進させて、ようやく気付いた。2月と考えたのは早とちりで、作品展は3月で、一ヶ月先の話であった。駐車料金まで取られるのは何とも忌々しいと、駐車カードを入れると、ゲートがそのまま開いた。時間が短かったので、駐車料金が掛からなかったのであろうか。

今年の2月と3月は曜日が同じで、間違いに気付かなかった。仕事を辞めてから何が一番変わったかと言うと、年月日と曜日の意識が薄くなったことであろう。色々な窓口で日付の記入の要があると、窓口の人に今日の日付を必ず聞いている。

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「道聴塗説 その三」の解読を続ける。

また開山(親鸞)の、乗信房への御書に、「まず善信(親鸞)が身には臨終の善悪をば申さず、信心決定の人は疑い無ければ、正定聚に住することにて候なり。さればこそ、愚癡、無智の人も、終りもめでたく候え。如来の御計らいにて往生する由、人々に申され候いける。少しも違わず候なり」と仰せられしは、
※ 乗信房(じょうしんぼう)- 常陸国に在住の親鸞の弟子。乗信房に宛てた親鸞の手紙が十六通残る。
※ 正定聚(しょうじょうじゅ)- 人々が悟りを得る可能性を3種類に分ける中の一つ。必ず仏陀になると決定しているもの。浄土真宗では、阿弥陀仏の救いを信じて歓喜し、疑わない心によって、現身に如来に等しい正定聚になりうるとする。
※ 愚癡(ぐち)- 物事を正しく認識したり判断したりできないこと。愚かであること。


先の黒谷(法然)の仰せに、「まめやかに往生の心ざしありて、弥陀の本願を疑わずして、念仏を申さん人は、臨終の悪(わろ)き事は、大方は候わまじきなりとも、また次に、されば仏の本願を信ぜん人は、兼ねて臨終を疑う心あるべからずとこそ覚え候とも、またもとよりの行者は臨終の沙汰をば、あながちにすべき様は候わぬなり」など、仰せられたる旨と一致なり。
※ まめやかに - 心がこもって。誠実に。まじめに。
※ あながちに(強ちに)- 必ずしも。一概に。
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