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道聴塗説 その三 3

(庭のイエローデイジー)

苗を頂いたイエローデイジーが、ようやく一輪、花を咲かせた。我が家の庭もようやく早春に突入したようだ。ただ、その分花粉の飛散も本格的になる。

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「道聴塗説 その三」の解読を続ける。

これ十八本願にただ念仏往生を御約束なされ、来迎往生と無きなれば、必ずしも末に拘(かかわ)りて、本を失うべからず。それを心得違うて、如来の来迎を嫌うと申すは、大なる謬(あやま)りなり。如何なる念仏者にても、念仏に備わる功能を無にすることはなるまじ。
※ 十八本願(じゅうはちほんがん)- 阿弥陀仏の立てた四十八願中の18番目の願。内容から、念仏往生の願とも、最も重要なので王本願ともいう。

来迎も、往生も、現世の利益も、摂取護念も、行者の念仏の力を以って得ると申すには非ず。如来の善巧の構え出す事にて、念仏の法爾の功徳なり。その念仏の法に備わる来迎や正念を、行者の力にて増しも減しもなるまじ。これゆえに、来迎も正念も嫌うには非ず。来迎を頼み、臨終正念を待ちて、往生する心を嫌うなり。
※ 摂取護念(しょうしゅごねん)- 仏・菩薩が行者を、おさめ取り、心にかけて守ること。
※ 善巧(ぜんぎょう)- 人々の機根に応じて巧みに善に教え導き、仏の利益(りやく)を与えること。
※ 法爾(ほうに)- 真理にのっとって本来あるがままであること。浄土真宗で、自力を捨て、阿弥陀仏の願力のままに計らわれていること。


元祖(法然)大胡の太郎へ御返事に、「まめやかに往生の心ざし有りて、弥陀の本願を疑わずして、念仏を申さん人は、臨終の悪(わろ)き事は、大方は候まじきなり。その故は、仏の来迎し給うことは、もとより行者の臨終正念のためにて候なり。それを意得ぬ人は、皆な我が臨終正念にして、念仏申したらん時に、仏は迎え給うべきなりとのみ、意得て候わば、仏の願をも信ぜず、経の文をも意得ぬ人にて候なり。
※ 大胡(おおご)- 大胡氏は、平安時代から上野国大胡城を拠点として、大胡郷(現在の前橋市大胡地域)を治めていた藤原姓足利氏の一族である。
※ 大胡の太郎(おおごのたろう)- 大胡氏は浄土宗を篤く信仰した。大胡小四郎隆義は京都滞在中に法然と知り合い、大胡に帰った後も浄土宗に深く帰依し、また子の太郎実秀も浄土宗に帰依した。隆義・実秀親子は手紙で法然へ質問を行っており、法然からの返答が「大胡消息」として残る。
※ まめやかに - 心がこもって。誠実に。まじめに。
※ 意得ぬ(いえぬ)- 物事の意味・理由などがわからない。


読書:「サーベル警視庁」 今野敏著
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