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道聴塗説 その二 3

(はりはら塾の郷土史講座の展示)

朝から、金谷宿大学の教授と事務局で、市の小型バスで、牧之原市の「はりはら塾」の発表会の見学に行った。金谷宿大学から学んで発足した、はりはら塾であるが、今では金谷宿大学を越えて、学生数が1680人、口座数が159と大きく盛り上がりを見せている。その発表会を見学して、金谷宿大学の運営の参考にしようというイベントである。残念ながら出席者は10人程であった。

写真は朝一番の様子で、この後、見学の人で混み合うようになった。。

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「道聴塗説 その二」の解読を続ける。

かく三種の見仏あれば、楞厳経、勢至円通章に、「若し、衆生の心に仏を憶い、仏を念ずれば、現前にても当の来にても、必定して仏を見る」とある、これなり。
※ 楞厳経(りょうごんきょう)-「首楞厳三昧経」の略。鳩摩羅什訳。はやく悟りに至るための三昧として,首楞厳三昧を説く。
※ 当の来(とうのらい)- 当来。必ず来るはずの世。来世。


また観経に「この想、成する時、行者聞くに当るに、水流光明及び諸(もろもろ)の宝樹、鳧(けり)、鳫(かり)、鴛鴦(おしどり)、皆な妙法を説くことを、定め出ずるにも、定め入るにも、恒(つね)に妙法を聞く。行者の聞く所、定め出ずるの時、憶(おも)い持して捨てず、修多羅と合せしめよ。若し、合せざるは名づけて妄想と為す。若し、合し有らば名付けて麁想に極楽世界を見るとなす」とあれば、念仏三昧の境は経説と合するを麁想と名づけて、妄想とは名づけ給わず。
※ 修多羅(しゅたら)- 経文。経典。
※ 麁想(そそう)- 心の動きの粗雑なもの。
※ 麁想見(そそうけん)- 粗雑な想い浮かべ(想像)。


来迎などの境も、これ皆な経説なれば、妄想とは名付くべからず。或は妄想虚見にもせよ、臨終に正境来迎せば、行者は正念に住す。


【閑話休題】
植木等の有名な歌に「スーダラ節」がある。「スーダラ」というのは、植木等の口癖から採った言葉だと聞く。植木等は浄土真宗のお寺に生まれていることから、この「スーダラ」は「修多羅(しゅたら)」サンスクリット語の「スートラ」から出た口癖ではないかと突然ひらめいた。ならば、「スイスイ、スーダラダッタ、スラスラスイスイスイ」と続く言葉は、お経がスラスラと口から出てくるさまを表現したものだったのではないか。そんな想像をしながら、歌詞を思い浮かべると、自然に笑みが浮かんでくる。
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