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道聴塗説 その一 8

(庭のビオラ)

「古文書に親しむ(経験者)」講座の教材、半年分のコピーを取らせてもらってきた。いよいよ、2年目に突入の準備である。

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「道聴塗説 その一」の解読を続ける。解読よりも、意味の理解が難しくて、苦労している。昔、仕事上でお付き合いのあった方で、最晩年に、今、お経を読んでいると話し、その面白さについて話してくれた方が2人居た。その両者ともに、60代の若さで亡くなった。

「道聴塗説」を読んでいて、二人の方の話していた意味が少し分るような気がした。「来世がある」という前提ではあるが、ここで展開される理論が大変論理的であることに気付く。宗教心はなくても、その論理的な部分がお二方の琴線に触れたのではなかったか。今はそんなことを考えながら、何とか理解したいと苦闘している。

流義に本願の始末を聴受して、一念帰命の御約束を申すを、最初の一念と名づく。その時に命終すれば、臨終の一念と申すものなり。されば、最初の一念と、臨終の一念と、別體に非ず。また平生往生と臨終とも、行者の寿命の長短に付いて、名を分かつなり。

然るに、臨終の正念を期して、往生と合点して、その臨終正念を願うて常に念仏すれば、平生の念仏をば、往生不定の思いにて申せば、疑惑の念仏になる。これ多念義の失なり。また最初の一念を往生と心得て、その後の念仏は往生の料には入用(必要)になければ、ただ報恩(恩返し)と心得て申すは、一念の後の念を無益に思う義なれば、一念義の失となるなり。
※ 正念(しょうねん)- 極楽往生を信じて疑わないこと。一心に念仏すること。
※ 多念義(たねんぎ)- 浄土宗の宗祖である法然の門人、長楽寺隆寛を祖とする一派の説く教義。終生念仏を続けることにより極楽往生できるというもの。⇔ 一念義。


これに、失を離れて、最初より臨終まで、念々の称名を決定往生と心得て、相続するを、元祖(法然)の正義とす。この念々決定の旨を、流義には報恩の念仏と名付く。報恩とは、往生を決定したる故に、仏恩を知りて報ずるなれば、毫髪ほども不定の心にては、報恩の義には非ず。
※ 毫髪(ごうはつ)-(細い毛の意から)ごくわずかなこと。ほんの少し。

さてこの報恩と決定往生と同じ旨(にて)、行者に就ては得失有るべし。一念も決定、二念も決定、乃至、一期の念仏みな決定往生にて、変わりなければ、勤めても、懈(なま)けても、往生に相違なしと心得て、懈怠は念仏に怠りあるべし。
※ 懈怠(けだい)- 仏道修行に励まないこと。怠りなまけること。。
※ 機(き)- 仏の教えに触発されて活動を始める精神的能力。教えを受ける人、あるいは修行をする人の能力・素質。機根。


それを相続せねば、往生はならぬ様に申すときは、多念は往生、少念は不定と申すになるべし。されば善道黒谷も遍数を定めて、懈怠を防ぎ相続をすすめ給う。その相続には報恩の念仏と心得たるは過失なし。これ開山(親鸞)の私意に非らず。
※ 善道(ぜんどう)- 善導大師。中国浄土教(中国浄土宗)の僧。「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立する。
※ 黒谷(くろたに)- 黒谷上人。法然上人のこと。
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