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道聴塗説 その三 4

(庭のジンチョウゲ)

まだ花は開いていない。今は赤いが開いた花は白い。

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「道聴塗説 その三」の解読を続ける。「大胡太郎への御返事」の続きである。

その故は、称讃浄土経に曰く、『仏、慈悲を持て、加え祐けて、心をして見たらしめ給はず』と説かれて候えば、唯の時に、よく/\申しおきたる念仏によりて、臨終に必ず仏は来迎し給うべし。仏の来迎し給うを見奉りて、行者正念に住すと申す義にて候なり。
※ 称讃浄土経(しょうさんじょうどきょう)- 唐の玄奘訳。「小経」の異訳。

然るに、先の念仏を空しく思いなして、よし無く臨終正念をのみ、祈る人などの候は、ゆゆしき僻胤に入りたる事にて候なり。されば仏の本願を信ぜん人は、兼ねて臨終を疑う心あるべからずとこそ、覚え候え。ただ当時申さん念仏をば、いよ/\至心に申すべきにて候。何時かは仏の本願にも、臨終の時、念仏申したらん人をのみ迎えんとは、たて給いて候。
※ 僻胤(ひがいん)- 正常でない血筋。
※ 至心(ししん)- まことの心。至誠の心。まごころ。


臨終の念仏にて往生すと申す事は、日々往生をも願わず、念仏をも申さずして、偏えに罪をのみ作りたる悪人の、既に死なんとする時に初めて、善知識の勧めに会いて、念仏して往生すとこそ、観経にも説かれて候え。もとよりの行者は臨終の沙汰をば、あながちにすべき様は候わぬなり。仏の来迎、一定ならば、臨終の正念もまた一定と、追い示すべきなり」と。
※ 善知識(ぜんちしき)- 人々を仏の道へ誘い導く人。特に、高徳の僧のこと。
※ 観経(かんぎょう)- 観無量寿経のこと。大乗仏教の経典の一つ。
※ あながちに(強ちに)- 必ずしも。一概に。


また浄土宗略抄にも出たり。これ開山(親鸞)の御意と一致なり。開山の隨信房へ答え給う御書に、「御同行の臨終を(ご)してと仰せられ候らしは、力及ばぬ事なり。信心、真にならせ給いて候人は、誓願の利益(りやく)にて候上は、摂取して捨てじと候えば、来迎臨終を、(ご)せさせ給うべからずとこそ、覚え候え。
※ 浄土宗略抄(じょうどしゅうりゃくしょう)- 法然が、北条政子から願われて、浄土宗の教えを簡潔に書いた手紙。
※ 期(ご)- 臨終の時。


未だ信心定まらぬ人は、臨終をも期(ご)し、来迎をも待たせ給うべしと仰せられしは、先の黒谷(法然)の仰せに、然るに先の念仏を空しく思いなして、由なく臨終正念をのみ祈る人などの候は、ゆゆしき僻胤に入りたる事にて候なり」と有る旨なり。
※ 僻胤(ひがいん)- 正常でない血筋。
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