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道聴塗説 その一 6、 および、地区の庚申さん

(竹下地区の庚申堂 / 旧デジカメ最後の一枚)

朝から、地区の年一回の庚申さんの行事を、当番の我が班で行うために、地区の無住のお寺に出向いた。晴天で風が止んで、日向にいるとあったかい日であった。六畳ほどの庚申堂で、近くの寺から呼んだ僧侶の法要のあと、近所のお年寄りの御詠歌があり、御札と供物を各戸に配って、地区の公民館で軽く昼食を取り、解散した。

庚申の行事を写真に撮るつもりだったデジカメが、レンズが動かなくなって潰れてしまい、夕方息子に同行を頼んで購入してきた。潰れたデジカメは2012年4月2日に購入した記録があるから、ほぼ5年活躍したことになる。新しいデジカメはキャノンのSX620HS 25Xという機種である。明日からはこのデジカメの写真になる。

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「道聴塗説 その一」の解読を続ける。

然れば、報恩の行には念仏の数に定めなければ、行者の量(人数)に随いてより相続する人は、八萬、十萬の功をも成すべし。流義に数を採らねばとて、念仏を嫌うことには非ず。却って念数の定めあるよりは、報恩の志は須臾も廃すべき道理なき故に、念仏は口に絶えまじきなり。

されば仏恩を知ること易からず。和賛(讃)に不思議の仏智を信ずるを、報土の因としたまえり。信心の正因、得ることは難きが中に、なお難しども、釈迦弥陀の慈悲よりぞ。願作仏心は得しめたる信心の智慧に入りてこそ、仏恩報ずる身とはなれ、とも仰せられたり。信心さえ退轉なく、報恩の行に油断あるべからず。これ信心を称名の本基とし給う故に、唯信を以って唯行と定むるなり。
※ 和讃(わさん)- 仏・菩薩、祖師・先人の徳、経典・教義などに対して和語を用いてほめたたえる讃歌である。
※ 報土(ほうど)- 生きとし生けるものが、みずからの行為によって、次の世に受ける国土。極楽浄土もその一。
※ 正因(しょういん)- 物事の直接的な原因。
※ 願作仏心(がんさぶっしん)- 仏にならんと願う心。
※ 退轉(たいてん)- 修行を怠り悪い方へ後戻りすること。


或は流義には頭数を嫌うとて、口称まで廃し、放逸に一生を過して、最初の一念に往生は定まれりと募り、臨終も悪相にて、奇特もなからんは、誠に成覚房一念義に同じして、大なる過失なるべし。また流義に、来迎を頼み、臨終を期して往生を定むることを嫌い給うも、念数の功に誇るを嫌うと同じ。
※ 口称(くしょう)- 口に念仏を唱えること。
※ 放逸(ほういつ)- 勝手気ままに振る舞うこと。生活態度に節度がないこと。
※ 募る(つのる)- ますます激しくなる。こうじる。
※ 成覚房(せいかくぼう)- 成覚房幸西。法然上人の門弟で一念義の創説者。
※ 一念義(いちねんぎ)- 浄土宗で法然の門弟幸西らの主張した教義。浄土に往生するには一念の信心だけで十分であり、多く念仏する必要はないとするもの。
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