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道聴塗説 その一 10

(日向ぼっこのムサシ)

3月の陽気で、ムサシは外に出してもらい、お気に入りの石のベンチで、自然に目蓋が下りてくる。これから杉花粉の季節が始まる。

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「道聴塗説 その一」の解読を続ける。今日で、その一を読み終える。

然るに、金釜や織女を得んと心掛けて、父母に事(つかえ)るは、父母を思うにはあらで、自分の欲を遂げんとするなれば、如何ほど粉骨しても、金釜も織女も感ぜざるなり。臨終の奇特等を望むもこれに同じく、如来他力の不思議を外にして、自力の念仏の功を積む故に、念々の称名は凡情の分別に隨すれば、却って臨終も思うようにも無く、奇特も現せざるなり。
※ 凡情(ぼんじょう)- 凡人の抱くようなつまらない感情。

これ臨終の正念も、奇特も、他力に依って得べきことを、凡情のはからいにて、巧み求むる失なり。また流義に、来迎を頼まず、臨終正念を期さずと申すことを、悪しく
心得て、報土の往生には来迎などなしというは、大なる謬(あやま)りなり。

黒谷(法然)も、諸行往生には化仏の来迎、念仏往生には報仏の来迎と、仰せられたり。念仏は経に無上大利と説き給いて、来迎に限らず、無量の功能を備えたれば、現世の利益も、摂取不捨も、来迎も、正念も、皆な念仏に備われり。
※ 化仏(けぶつ)- 仏や菩薩が、衆生を救うため、その機根に応じて現れる仏や菩薩、また明王となった姿。
※ 報仏(ほうぶつ)- 報身仏。阿弥陀仏・薬師仏のように願を成就して仏身を得た仏。
※ 無上大利(むじょうだいり)- この上もなくすぐれた、大きな利益(りやく)。
※ 無量(むりょう)- はかることができないほど多いこと。
※ 摂取不捨(せっしゅふしゃ)- 仏がこの世の生きているものすべてを、見捨てず、仏の世界に救い上げること。


この一期の身は、前業の所感にて、垢障に覆われ、一切の利益現れずとも、念仏の行者は、諸仏、菩薩、諸(もろもろ)善鬼神も、隨い遂げ、擁護し給うことなれば、臨終の一瞬に至って、その平生、付き添い給う験(しるし)を顕わすこと、経釈に誠説ありて、往生の現証とするなり。
※ 一期(いちご)- 生まれてから死ぬまで。一生。臨終。最期(さいご)。
※ 前業(ぜんごう)- 前世で行った善悪の行為。
※ 垢障(くしょう)- 煩悩悪業の障り。
※ 善鬼神(ぜんきしん)-「鬼神」とは、超人的な能力をもつ存在の総称。仏道修行者を守護する善鬼神と、生命をむしばむ悪鬼神に大別される。善鬼神としては、梵天、帝釈天、竜王、夜叉、阿修羅など八部衆など。悪鬼神としては、羅刹など。
※ 経釈(きょうしゃく)- 経典とその註釈書。


ただ流義にはこれ等の奇特を心に掛けずして、往生をのみ一定と喜び、浄土に至って無上菩提を証し、十方衆生を済度せんことを、深く信ずるなり。かく往生を得たることは、行者の身には疑わねども、いよ/\相違なきことを仏の方より現証に示し給う故に、臨終の正念などの奇特を現わし給う。
※ 無上菩提(むじょうぼだい)- もっともすぐれた悟りのこと。

これ凡慮の兼ねて期すべきことに非ず。仏智不思議の致す処なり。これゆえに、曇鸞大師を始め、念仏の祖師たち、皆々臨終に霊相を感じ給う。開山(親鸞)の臨終、頭北面西の威儀、これ正念往生の験、悉く仏智不思議なり。
※ 凡慮(ぼんりょ)- 平凡な考え。また、凡人の考えること。
※ 仏智(ぶっち)- 仏の欠けたところのない智慧。
※ 曇鸞大師(どんらんだいし)- 中国南北朝時代の僧、中国浄土教の開祖。浄土宗では、「浄土五祖」の第一祖。 浄土真宗では、七高僧の第三祖。
※ 頭北面西(ずほくめんさい)- お釈迦さまの涅槃のお姿。頭を北にし、顔を西に向けた寝相。
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