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道聴塗説 その一 9

(南アルプス前衛の山々)

当地は、このところの打ち続いた寒さでも、雪を見ることはなかった。子供たちはバスを仕立てて雪見遠足に行くという。そんな暖かい地であるけれども、雪を見ることはないというのは間違いで、当地からも冬には雪が見えている。富士山を引き合いに出さなくても、遠く見える南アルプス前衛の山々は、この時期、雪に覆われている。大代川の土手に出て、ちょっと目を凝らせばそれが見える。

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「道聴塗説 その一」の解読を続ける。

往生礼讃の不相続念報仏恩ゆえと、雑修の失を明かし給うに反して、相続念報仏恩の専修の旨を勧め給う。報恩と申す時は、一念よりは多念は優れて、しかも一念も報恩なれば不定の念仏に非ず。その多念も勝れて、多念義の失なし。何ぞなれば、一念も多念も報恩と名づく。これ共に往生の決定するに付いて、仏恩を報ずるなり。
※ 往生礼讃(おうじょうらいさん)- 善導大師の作。「一切衆生を勧めて、西方極楽世界の阿弥陀仏国に生ぜんと願ぜしむる六時礼讃の偈」という意味の偈文。略して「往生礼讃」とも「六時礼讃」とも「礼讃」ともいう。
※ 六時礼讃(ろくじらいさん)-中国の僧・ 善導の「往生礼讃」に基づいて1日を6つに分け、誦経、念仏、礼拝を行う。
※ 偈文(げもん)- 仏・菩薩を称えた語句。
※ 雑修(ざっしゅ)- 念仏だけでなく、いろいろ行業をまじえて修すること。


その報恩は行者の志に一念は浅く、多念は深し。故に勝れべし。譬えば、孝子、嫌ほど粉骨して、父母の恩を報ずとも、報じ尽くし難きなり。それを報じ尽くさねばとて、父母の遺體なれば、子に非にはあらず。念仏の行者も往生の遺體をうけたれば、仏子に紛れなし。報恩の念仏は多少ともに往生の遺體の恩を報ずる、仏子の孝道なり。
※ 仏子(ぶっし)- 仏教を信ずる人。仏教徒。仏弟子。

その孝道に付いては、薄きよりは厚きを勝るとするは、今の念仏報恩の行も、少念よりは多念を勝ると申すべし。されば懈怠の機にも、報恩の念仏には、少念も多念も同じと云って、報恩は少念にても足らぬと思い難ければ、自然と称名を相続すれば、懈怠をも除く理(ことわり)なり。これ多念を存すれども、往生不定の失なし。また一念往生と信ずれども、一念義の失なし。

元祖(法然)より相伝の唯行は、開山(親鸞)の唯信にある旨を会得すべし。さてまた報恩の念仏は、二六時中に申しても、これで仏恩を報じ尽くすと申すことなければ、功に募り、誇る心も起こらず。至孝の人の父母罔極の恩を思う如くなれば、自然に臨終正念、来迎の奇特などをも現するなり。
※ 罔極の恩(もうきょくのおん)- 両親から受けた報いきれないほどの恩のこと。
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