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道聴塗説 その一 4

(土手のイヌフグリ)

花のない季節、何か咲いてないか、目を凝らしてみれば、小さな花、イヌフグリの花を見つけた。写真を撮り終えたところへ、一陣の冷たい風。最も整った一輪が、花の形のまま吹き飛んだ。

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「道聴塗説 その一」の解読を続ける。

今この八助を以って、往生の信行を喩(たと)うべし。まず八助が自心に忠節の覚えなきは、ことわり(理)なり。ただ、主人は奉事すべきものと、一向に思い入れてあれば、主人かかる困窮の上は、八助を離れて一日をも忍ばんようなんと、身に引き負いたる故に、如何様にもこの難儀を救わんと、二六時中に志を竭(つく)したれば、朝夕の粉骨の労を、これほど勤め、あれほど働きたり、と覚えしことなし。
※ 自心(じしん)- 己のこころ。
※ 奉事(ほうじ)- 長上に仕えること。(仕え奉る)
※ 一向に(ひたぶるに)- 一途(いちず)に。ひたすらに。
※ 二六時中(にろくじちゅう)- 一日中。いつも。(「四六時中」の、一日が12刻であった江戸時代の使われ方。)


もしその忠節に覚えあらば、世間の奉公人などに引き比べんに、食物さえ無ければ、給金は尚更なり。その上に、自身の日雇い賃銭も、一飯一肉にても、人より受けたる物、皆な主人におくることなれば、奉公は何とも申し分は無し、など申す意も起るべければ、暇(いとま)をも乞いて、他家に事(つか)えることもあるべし。苦労し覚えざるほどの事ゆえに、皆な年来を貧窮の主人に事(つか)えて、厭い離るゝ意なきなり。

これ開山(親鸞)の念仏の遍数にかかわらず、一向に信心を勧め給う旨と同じきなり。その信心は如来の本願を信じて、一度帰命し奉る上は、行者の身口意を如来に奉献して、己(おのれ)称礼念と思うべからず。八助が主人に身を任せて、主従の契約、いつまでも離れぬ事と思い入りたるに同じかり。
※ 遍数(へんすう)- 回数。数。
※ 帰命(きみょう)- (「南無」と同じ意)仏の救いを信じ、身命を投げ出して従うこと。帰依。
※ 身口意(しんくい)- 人間の行為すべてを、身体の働きである身、言語活動である口、精神作用である意、に分類したもの。三業(さんごう)。
※ 称礼念(しょうらいねん)- 口業の称名、身業の礼敬、意業の憶念。称名し、礼拝・憶念すること。


行者の、身を如来に任せて、後世の大事を御預け申す上は、仏恩の深重なることを感じて、報恩の称名を相続するは、粉骨摧(碎)身の務め怠るまじきなり。これは八助が主人を大事に思い入れて、粉骨の忠節を尽くすに似たり。
※ 深重(しんちょう)- いくえにも重なること。著しく大きいこと。

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