ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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キリスト教20~救いと人間の自由意志(続きの2)

2018-03-13 09:28:32 | 心と宗教
●救いと人間の自由意志(続き)

 稀代の碩学・小室直樹は、こうしたカルヴァンの予定説こそ「キリスト教の本質」だと主張した。だが、それは一面的な見方である。カルヴァンの神学を学んだ16世紀後半のオランダの改革派神学者ヤーコブ・アルミニウスは、人間は自らの意志で神の救いを受けることも、拒絶することもできると反論した。ヨーロッパで最も早く自由主義(リベラリズム)の思想が発生したオランダに現れたアルミニウスの自由主義神学は、自由主義・デモクラシーが発達したイギリスで、非国教会系プロテスタントに影響を与えた。メソディストは、その強い影響のもと、カルヴァンの予定説とは対照的に、すべての人間の自由意志による救済を説く。クエーカーやユニヴァ―サリストは、さらに、すべての者が例外なく救われるとする万人救済説を主張する。キリスト教には、予定説とは正反対のこうした思想があり、現在の世界ではカルヴァン主義者より多くの信奉者がいる。自由意志による救いを否定する主張が主流を占めているが、これに反対する主張も根強く存在するのである。
 救いを求める宗教を開いたイエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。」と告げ、「悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ書1章15節)と説いた。悔い改めるように説くということは、人間に自由意志があり、その自由意志によって悔い改めるように諭すものだろう。また、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ書7章7節)と説いた。自ら求める者には、救いを与えられる。求めない者は、救いは得られない、と諭すものだろう。自由意志を全く否定するならば、こうしたイエスの教えは意味をなさなくなる。救いを得るには、人間が自由意志を以って努力することが必要である。しかし、救いは人間の努力だけでは得られない。人間の努力だけでは達成できないところに、神の救いが期待されるということでなければならない。
 予定説を拒否し、自由意志による救いを期待するならば、救済の原理は因果説になる。救いを得るために努力し、善行や功徳を積むことが、救いにつながり、また救われる程度に影響するという考え方である。ただし、キリスト教においては、因果説の場合も、人間の努力だけで救いを得られると考えるのではない。最終的に人間が救済されるか否かは、再臨したイエス・キリストが行う最後の審判によって決定されると考える。その点は、予定説と共通している。救済の実現に関して、救い主としてのイエス・キリストの意志を除くならば、キリスト教ではない別の宗教になる。それゆえ、キリスト教における救済の原理は、イエス・キリストにある。イエスに万人を救済する力がなかったり、イエスが自ら再臨しなかったりすれば、キリスト教における救済は成り立たない。
 ところで、キリスト教と同じくユダヤ教から派生したイスラーム教は、本質的には予定説である。六信の一つに天命があり、信徒は神の意志による予定を信じる。イスラーム教徒の慣用句に、「イン・シャー・アッラー」がある。文字通りには「もしも神が欲し給うならば」を意味する。しかし、イスラーム教は、人間の自由意志を認める。この点が、キリスト教の主流の考え方と異なる。
 現世の物事の大筋は神によって定められているが、信徒は自らの自由意志によって、現世を生きねばならぬ義務を与えられている。イスラーム教では、アッラーは人間が自ら運命を変えぬ限り、人間の運命を変えることがないとしている。信徒にとって現世は試練の場であり、そこで彼が自らの意志で選び取ったことの結果によって、来世での地位が定められると考える。
 イスラーム教の救済の原理は、アッラーを信ずる者は、みな来世の天国に行けるというものである。一種の万人救済説である。キリスト教と違い、神が予め救う者を選別しない。ただし、来世で天国へ行くか地獄へ行くかは、現世でよいことをするか悪いことをするかによって決まるとする。この部分は因果説であり、仏教に似たところがある。ただし、仏教は因縁果の法則によって結果が生じるのに対し、イスラーム教では、最終的にはアッラーの意志によって決定される。またイスラーム教では、現世で罪を犯しても、他の神を信じることがなければ、最後はアッラーの赦しを受けて天国に行くことができるとする。この赦しへの期待は、アッラーを慈悲あまねく慈愛深き神と信じることによっている。
 宗教には、救いを求める宗教、解脱を目指す宗教、儀礼を行うことを主とする宗教がある。例えば、キリスト教、イスラーム教は、救いを求める宗教だが、ヒンドゥー教、仏教は、解脱を目指す宗教であり、神道は儀礼を行うことを主とする宗教である。
 仏教では、真の悟りを得たものを仏(ブッダ、目覚めた者)という。仏教は、仏が説いた教えであると同時に仏になるための教えである。これに対し、キリスト教は、神の子とされるイエス・キリストが説いた教えであり、キリストになるための教えではない。
 仏教は法(ダルマ)の真理を解明し、それを実践することで解脱を目指す教えである。世界の成り立ちは、セム系一神教の創造説とは異なり、縁起説を取る。縁起の理法は因果律であり、解脱は修行という行為が原因となって得られる結果であるとするのが、因果説である。煩悩を消滅しようとする人間の努力なくして解脱には至れないと考える。
 大乗仏教では、如来や菩薩が想定されるようになり、彼らに帰依すれば救済されると説く。称名念仏や唱題をするだけでみな極楽往生できると説く宗派もある。この場合も、そうした行為が原因となって結果としての救いを得られるとするものである。
 仏教には、自力と他力という概念がある。自力で解脱を目指すのが、仏教の修行である。これは自由意志の働きである。原始仏教や部派仏教(小乗仏教)はこの道である。大乗仏教でも天台宗・真言宗・禅宗等は自力宗といわれる。だが、修行によって解脱を得ようとするには、出家して。多くの戒律を守り、厳しい修行生活を送らねばならない。また、生涯をその道に捧げても、解脱を得られる者は、ごくまれである。そのため、大乗仏教では、他力すなわち仏や菩薩の助力に頼れば救われると説く宗派が現れた。
 仏教の中には、キリスト教とは教義、実在観・世界観・人間観が全く違うが、死後に必ず救われると説く宗派がある。浄土系の宗教がそうで、如何なる悪人でも南無阿弥陀仏と唱えるだけで、必ず阿弥陀如来によって救われると説く。人間の究極的な願望を表したものと言えよう。浄土真宗の蓮如は、門徒に対して、極楽往生できることは決まっているから戦闘においてひるんではならない、と説き、門徒集団は強い戦闘力を発揮した。一向一揆の強さは、死を恐れぬ信仰にあった
 浄土宗・浄土真宗等は他力宗といわれる。民衆は、俗世間で生活をしながら、救いを願望する。簡単に唱えられる念仏や多少の供養をすれば、救ってもらえるということであれば、心の安らぎや慰めは得られよう。だが、生涯修行に徹する生活を送っても、まれにしか得られない境地に、普通の生活によって到達することは、ほとんど不可能である。そのため、観念的な自己満足に陥りやすい。こうした他力の道であっても、読経や称名念仏等を行うのは、自由意志によるものであり、人間の努力である。自力の道は自由意志による努力が最大限に求められ、他力の道は自由意志による努力が最小限で良いとするという違いがある。ともに自由意志あっての実践である。
 自由意志を全く否定するキリスト教の一部の教派は、神の絶対性を強調するあまり、人間の能力を過小評価している。その教派の考え方は、イエスの教えをそのまま伝えているというより、古代ローマ帝国の奴隷制社会や中世ヨーロッパの農奴制社会の支配原理が教義に影響を与えているものと考えられる。近代の社会では、識字率が上がり、個人の意識が発達し、自由と平等が価値として広がるにつれ、自由意志を全く否定する教派で信奉者が減少してきたのは、当然と思われる。

 次回に続く。