ほそかわ・かずひこの BLOG

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キリスト教17~三位一体説

2018-03-05 09:38:37 | 心と宗教
●三位一体説

 キリスト教は、超越神ヤーウェを唯一の神とする唯一神教である。それと同時に、キリスト教の主流では、この神を三位一体の神とする。次に、三位一体に関する教義について書く。
 『マタイによる福音書』は、イエスは弟子たちへの「山上の教訓」で、次のように語ったと記している。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と(マタイ書28章18~20節)。
 ここにイエスの言葉として「父と子と聖霊の名によって」という三位一体に関する文言が出ている。しかし、イエス自身が父と子と聖霊の三位一体を説いたとは考えられない。この三位一体の文言は、使徒時代には全く知られていなかったものである。三位一体の考え方は、その後に、原始教団において発生・発達し、マタイによる福音書が書かれた時期には、一個の思想として成立していたものだろう。その思想を福音書家がイエスの言葉として記したと見ることができる。
 三位一体(Trinity)とは、唯一の神が、創造主としての父なる神、贖罪者イエス・キリストとして世に現れた子なる神、信仰経験に顕示された聖霊の三つの位格を持ち、それぞれが同格に存在するとする教義である。

(1)第1の位格:父なる神

 三つの位格のうち、父なる神は、ユダヤ教の神ヤーウェと同じ神である。神ヤーウェについては、先に書いた。キリスト教では、その神のとらえ方が、霊・ロゴス・愛を強調したり、三つの位格を持つとしたり、独り子・イエスを遣わしたとしたり、聖霊を発するとしたりする点が独自の点である。

(2)第2の位格:子なる神イエス

 キリスト教はイエスをキリストとする宗教であり、イエスをどうとらえるかがキリスト教の根本問題である。古代にその点を中心とする論争が起こり、正統と異端に分かれ、また諸教派が発生した。
 325年のニカイア公会議では、父なる神と子なるイエスは「異質」だというアリウスの異質説が否定され、父と子は「同質」だとするアタナシオスの同質論が正統と決定された。キリストの神性と父なる神との本質的同一性を確認したものであり、イエスは完全な人間であり、同時に完全な神であるという理解である。また、この決定によって、同会議は、父なる神と子なる神であるイエスと聖霊の三位一体を規定した。ここにキリストは人にして神であるとするニカイア信条が成立した。信条(credo)とはキリスト教の教義を要約したものである。ニカイア公会議で採択された信条は、後に拡充されたので、それと区別して、原ニカイア信条という。
  原ニカイア信条は、381年の第1コンスタンティノポリス公会議において拡充され、聖霊・教会・死者たちの復活についての教義の詳細が文章化された。これをニカイア・コンスタンティノポリス信条という。
 続いて、431年のエフェソス会議で、イエス・キリストの神性と人性が問題になった。イエス・キリストは、人間と同じ肉体を持ちながら神であり、人性と神性の二つの本性(ナトゥーラ)を持つとする説を両性論という。これに対し、受肉したイエスは神性のみを持つとする説を単性論という。同会議では、両性論を説くネストリウス派は異端とされた。
 ところが、451年のカルケドン公会議では、イエスは完全な人間であり、同時に完全な神であるという主旨が再確認されたうえで、単性論が否定され、両性論が正統と決定された。イエス・キリストにおいては唯一の位格しか存在しないが、その一つの位格のなかに人性と神性との二つの本性を備えるとしたものである。そのうえで、両者の関係を、「混ざらず、変わらず、分かれず、離れず」と規定した。これが、カルケドン信条である。会議の結果、単性論が異端とされるとともに、両性論で部分的に見解の異なるネストリウス派が再度異端とされた。
 ニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条は、ローマ・カトリック教会、東方正教会、プロテスタント諸派の多くで信奉されている。内容は信条告白の項目で述べる。
 イエスを子なる神とすることは、イエスは「神の子」であるだけでなく、「主」ともすることである。「主」であるとは、イエスは超越神が人間の姿を取って現れた存在ということである。イエスの受けた迫害や磔刑は、その超越神が体験したことという考え方が成り立つ。またイエスは天地創造の前から父なる神の右に坐していたとも信じられている。これを先在説という。
 当時の古カトリック教会は、自らの教義と異なる説を、異端として厳しい弾圧を行った。だが、父なる神とイエスの異質説を説くアリウス派の考え方は、ニカイア公会議で異端とされた後も存在し続けた。現代の教派の中では、ユニテリアンは三位一体を認めず、イエスの神性を否定し神の単一性(Unity)を唱えたアリウスの説を継承する。また、カルケドン公会議等で異端とされたネストリウス派は、シナにまで伝道され、そこで景教と称した。ヨーロッパでは18世紀の啓蒙主義の時代以降、イエスの神性を否定し、人性を強調する説が、プロテスタントの一部で有力になっている。この説は、近代西欧科学の諸発見と矛盾しないので、信奉者が増加する傾向にある。カルケドン公会議の決議を拒絶する者たちは、非カルケドン派と呼ばれる。単性論を取る少数教派である。アルメニア使徒教会、ヤコブ派教会、エチオピア正教会、コプト正教会、シリア正教会などがあり、その多くが今日も存続している。
 さて、キリスト教より約600年後に現れたイスラーム教は、イエスを「神の子」とするキリスト教の重要教義を否定する。イエスは神ではなく、単なる人に過ぎない。優れた預言者であるに過ぎないと断じる。それゆえ、三位一体説も明確に否定する。もっともムハンマドは、三位とは神とイエスと聖母マリアだと誤解していた。当時そのように説くキリスト教の一派があった。この誤解を補正し、聖母マリアを聖霊に替えたとしても、イスラーム教はイエスは「神の子」ではないと否定するので、基本的な論理は変わらない。ユダヤ教では、イエスを救世主であるとも預言者であるとも認めない。この点、イスラーム教はイエスを預言者の一人と評価している点がユダヤ教とは異なる。
 ユダヤ教は、唯一絶対の神を信仰する。これに比し、キリスト教は、神と人間の間に「神の子」としてのイエスを仲介者として置くことで、唯一神の絶対性・超越性を弱めたという見方が成り立つ。イスラーム教は、神に子などないとして、子なる神を否定する。それゆえ、イスラーム教は、セム系一神教の神観念を、もともとのユダヤ教の考え方に戻し、これを徹底・純化しようとしたと言えよう。

(3)第3の位格:聖霊

 イエスをどうとらえるかということともに、聖霊をどうとらえるかが、またキリスト教では、大きな問題である。
 三位一体説は、創造神を父とし、その子を男子とする。男性原理によるとらえ方である。いわば神聖なる父子家庭である。母や女性的なものは存在しない。ここで父と子の間にあるとされるものが、聖霊である。
 聖霊について、『ヨハネによる福音書』15章26節には、「父のもとから出る真理の霊」とある。もともとは父から発出するものとされていた。その説を継承する東方正教会では、発出するのは父のみとしている。しかし、ローマ・カトリック教会では、父と子の両方から発出されるという説に変わった。この点が両教会の分裂の教義上の要因の一つになった。
 アウグスティヌスは、聖霊について「位格的な統一、聖性、愛」であり、父と子を「結び合わせているもの」と説いた。岩下壮一は著書『カトリックの信仰』で、聖霊は「父と子の愛の関係」とし、「父と子との間にはとこしえの愛がーー聖霊がーー漲っている」と書いている。聖霊とは愛であるという理解だが、この愛は父性愛であり、男性的な愛である。
 聖霊は、父なる神と子なる神の間でのみ働くものではない。イエスの死と復活後、使徒たちに聖霊が降誕し、使徒たちが異国の言葉を語るなど不思議な現象が起ったことが、『使徒言行録』に書かれている。一般的な見方をすれば、一種の集団的なトランス状態または憑依現象である。この聖霊降誕がキリスト教の教会の始まりとされる。それゆえ、聖霊は父と子の間における愛というだけでなく、使徒に対しても作用するものであり、可能性としては広く信徒にも作用し得るものと考えられる。
 一般に霊とは、身体や生命体から独立して働く精神的な存在をいう。古代の多くの宗教では、祖先の霊、動物の霊、植物の霊等の存在が信じられ、人間と霊との交通が儀礼や祈りにおいて重要な要素となっていた。キリスト教は自然崇拝・祖先崇拝を否定している。その一方で、神から発する聖霊を位格の一つとする。父なる神は霊的な存在ゆえ、霊である神が発する霊的な働き、力、エネルギーと考えることができる。聖霊を愛とするならば、霊的な働き、力、エネルギーが愛と感じられるものである。愛は感情であり、結合や統一をもたらす感情である。そうした感情のこもった働き、力、エネルギーを聖霊ととらえるものと考えられる。単なる物理的な力、エネルギーではなく、精神的な力、エネルギーである。

 次回に続く。