ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

キリスト教24~大安楽往生

2018-03-22 12:46:25 | 心と宗教
●大安楽往生

 人間が亡くなった後、遺体が腐敗しない、硬直しない、体温が下がらない等の現象は、キリスト教に限らず、他の宗教にも類例がある。そうした現象を「大安楽往生」という。大安楽往生は、人間が体験できる死の際における最高の現象であり、キリスト教、仏教、道教等の従来の宗教で救済や解脱を示す現象として位置付けられてきた。しかし、その達成は極めて困難であり、大安楽往生現象に相当するか、またはそれに近い事例は、過去の宗教ではごくまれにしか記録されていない。
 仏教においては、弘法大師空海や法然の臨終相は、死後、生きているような姿だったと伝えられている。高野山中興の祖、覚鑁は、死後32時間経過しても身体はなお温かで、生きているようで善人至極の相だったと記録されている。原罪という観念のない仏教では、罪障の消滅によって心の妄執がたち切られ、硬くこわばっていた身体が柔らかくなると説いている。
 道教においては、葛洪が「顔色は生きているようで、体は柔軟で尸(しかばね)を挙げて棺に入れると甚だ軽く空衣のようだったので、世の人々は彼を尸解仙と言った」と伝えられている。また『高僧伝』神異編にいう保誌は、屍体が柔軟で香りがよく、顔には悦びの色が現れていたとされている。道教では、善行によって罪、悪行の過ちを帳消しにすることで登仙することができると説いている。
 キリスト教、仏教、道教は、同じ現象を異なる概念の体系で説明しようとしたものと考えられる。共通しているのは、死後、遺体が腐敗するのは、原罪・罪障・過去の悪行の結果であるとされていることである。逆に遺体が腐敗しなければ、それらを免れていることになる。だが、従来宗教では、ほとんどの人々は死後、遺体が腐敗するので、原罪かの自由、罪障の消滅、過去の悪行の帳消しができていないことを表している。死後硬直なく、体温冷めず、死臭・死斑のない「大安楽往生」の達成は極めて困難であり、過去の宗教ではごくまれにしか記録されていない。聖人・名僧といわれる者でも極くまれな現象である。また自分一人が達成できるのがよほどよいところであって、他の多数の弟子や信者までを大安楽往生させ得たという事例は、人類の歴史に全く見られない。ところが、現代の日本では、こうした極めてまれな貴重な現象を普通の人々が多数体験しているという驚異的な事実が存在する。大安楽往生は「崇高なる転生」ともいう。関心のある方は、次のサイトをご参照願いたい。
http://srk.info/experience/

●解放と自由の観念

 原罪の消滅と死の克服に関連することとして、解放と自由について、ここで述べておきたい。
近代西欧では、自由を求める思想が発達した。近代西洋文明が世界に広がったことにより、自由は現代世界における主要な理念の一つとなっている。自由は、キリスト教の「解放」の思想に根差したものである。
 新約聖書では、パウロが書簡の中で自由を意味する語を用いた。パウロが自由の語を使うのは、イエスの使命は人間を罪と死と律法から「解放」することにある、という教義を説く場面である。「解放」という観念は、ユダヤ教の聖典でもある旧約聖書の「出エジプト記」による。モーゼの率いるユダヤ民族は、エジプトにおける強制労働の苦役から神ヤーウェによって救出された。この隷属からの解放の物語は、キリスト教の教義に大きな影響を与えた。 
 キリスト教では、人間は、神に背き原罪を犯して、神から断絶した。だが、神は人間を愛するゆえにひとり子イエスを使わし、その犠牲によって人間の罪があがなわれ、再び神と結び付いた。神にいたる道はただ一つ、イエスによるのみである、と説く。この原罪からの「解放」が、キリスト教の教義の柱の一つとなっている。
 だが、先に書いたように原罪の消滅は実現しておらず、人類は死すべきものとしての運命を背負っている。キリスト教において、死を克服した大安楽往生を達成し得た者は、ごくまれにしか存在しない。
 なお、近代西欧では、自由を求める思想・運動が起こり、自由は権利として確立されていった。詳しくは、拙稿「人権――その起源と目標」第1部をご参照願いたい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i-1.htm

 次回に続く。