ほそかわ・かずひこの BLOG

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キリスト教129~恐怖政治の中での理性の神格化と「至高の存在」の崇敬

2018-12-08 08:52:48 | 心と宗教
●恐怖政治の中での理性の神格化と「至高の存在」の崇敬

 国民議会に代わる立法議会では、共和制を主張するジロンド派が台頭した。立法議会は、1792年、亡命者送還の要求に応じないオーストリアに宣戦を布告した。ここでフランス市民革命は、国内の変革だけでなく、対外戦争を伴うものに拡大した。抗争と戦争の中で民衆はチュイレーリ宮を襲撃し、王権の停止を宣言した。また男子普通選挙による国民公会の招集が決定された。9月20日、国民公会は、王政の廃止と共和制の成立を宣言した。
 翌93年、ルイ16世と王妃マリー=アントワネットは、断頭台(ギロチン)で処刑された。イギリスの市民革命同様、国王が処刑されて君主制が廃止され、共和制が実現した。各国への波及を防ぐため、イギリスが中心となって第1回対仏大同盟が結成された。フランスでは、外圧による危機が高まるなか、国民公会でジャコバン・クラブの急進共和主義者が主導権を握った。より急進的なコンドリエ・クラブからも合流した。彼らをモンターニュ派と呼ぶ。その中心指導者が、マクシミリアン・ロベスピエールである。
 ロベスピエールは、国民主権ではなく、人民主権を打ち出した。ルソーを信奉し、ルソーの一般意志論をシェイエスよりも徹底した。人民主権論では、主権を掌握した権力者は、人民の名において独裁を行うことができる。ロベスピエールは、恐怖政治を行った。人民主権論は、個人独裁の理論に転じ得る。
 恐怖政治の最中、1793年、エベール等の過激派は「理性の祭典」を行った。「理性の祭典」とは、人間理性を神格化した儀式である。会場のノートルダム寺院では、「理性の女神」を女優が演じた。ヴォルテール、ルソー、フランクリン等の胸像が並べられた。フランス市民革命は、人間理性を賛美する思想が生み出したものだが、その思想の一つの頂点が「理性の祭典」といえるだろう。理性を神格化する過激派は、カトリック教会の破壊や略奪を強行した。ロベスピエールやダントンは、無秩序が広がるのを恐れ、エベール派を逮捕・処刑した。
 その後、独裁者となったロベスピエールは、94年「至高の存在の祭典」を行った。人権宣言の前文に、「至高の存在(Etre supreme)の面前で、かつその庇護の下に」とある、その「至高の存在」である。ロベスピエールは無神論に反対し、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と主張した。そして、カトリック教会の神観念に代わるものとして、「至高の存在」を祭壇に祀った。人権宣言では文言だけだった「至高の存在」が、崇敬の対象として持ち出された。祭典はロベスピエールが主催し、チュイルリーの庭園で行われた。この祭典は、ルソーが『社会契約論』で市民に国民的な義務を愛させるために必要だとした「市民的宗教」の実現を試みたものだった。 その一方、パリでは、ギロチンによる断首刑が行われ、多い時は連日50~60人にも達した。
 闘争は国内各地に広がった。フランス西部のベェンデ地方では、女子供も含めて40万人もの農民が虐殺された。流血と破壊のなかで、革命による犠牲者は総計200万人にのぼったという。人権の主張と追求は、もともと闘争の中で行われてきたものだが、その闘争性が激しく発揮された。フランス市民革命において、理性の光を放射する啓蒙と、処刑と虐殺に熱狂する野蛮とは、表裏一体だった。
 人間理性を最高のものとすることは、人間の理性が神に近づいたのではなく、近代西洋人が自我膨張に陥ったのである。すなわち、人間の知恵への過信であり、自己過信である。
 恐怖政治への反発は強まった。94年7月27日、クーデタが決行された。今度は、ロベスピエールが襲われた。これがテルミドールの反動である。

●ナポレオンの侵攻戦争と敗北

 1795年、穏健派によって総裁政府が樹立された。神父シェイエスは、人気が高く、総裁に指名された。シェイエスは革命を扇動していながら、カトリック教会から破門になることなく、また恐怖政治をも生き延びた。彼は、フランス革命史で最も奇妙な人物であり、また世界のキリスト教史においても特異な宗教家である。
 当時、混迷と戦争のなか、革命軍の将校として目覚しい功績を挙げていたナポレオン・ボナパルトが国民の支持を集めていた。シェイエスは、ナポレオンと結んで1799年、ブリュメール18日にクーデタを起こした。総裁政府を倒して、統領政府を樹立した。ナポレオンが第一統領となり、シェイエスは統領の一人となった。
 次いで1802年、統領政府のもとで行った国民投票で、国民はナポレオンを終身の第一統領に選び、シェイエスは敗退した。国民は、さらに1804年にナポレオンを皇帝に選んだ。教皇から帝冠を授かったフランス皇帝と神聖ローマ帝国皇帝が並立する事態となった。 シェイエスは、国民の意思は「常に至上至高の法」だとしたが、国民は選挙によって権利・権力を託した独裁者を、皇帝の座に就かせた。民衆を神格化したシェイエスは、集団の心理のダイナミズムを全く予測することができなかった。
 この間、ナポレオンは、絶大な権力を得て、中央銀行の設立、教育制度の整備、国民皆兵制、政教条約の締結等を行い、1804年3月には民法典を制定した。これらは、市民革命の成果を政策的に実現したものと言える。
 ナポレオンは、フランス革命の理念を伝えるという大義のもと、対外的な大戦争を推し進め、ロシア遠征を敢行した。ナポレオンが戦域を北方に拡大している間、イギリスは諸国と連携を強め、総反攻の準備を進めた。フランス軍に侵攻された国々では、ナショナリズムに目覚めた諸民族が各地で一斉に蜂起した。ここに至ってナポレオンは、14年に退位し、エルバ島に流刑となった。ウィーン会議が進まない状態を見たナポレオンは、15年エルバ島を脱出して再起し、皇帝に復位した。諸国連合軍は再びナポレオン軍に立ち向かい、ウェリントン将軍の下、ワーテルローの戦いでこれを破った。ナポレオンは百日天下に終わった。今度は、大西洋の孤島セントヘレナ島へ送られた。そこで波乱万丈の生涯を閉じた。

 次回に続く。

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