●啓示宗教
キリスト教は、啓示宗教である。人間の理性・感情・宗教性に基づく自然宗教に対し、啓示宗教とは、神の啓示に基づく宗教である。啓示とは神が人間に表し示すことである
キリスト教は、ユダヤ教から啓示宗教であるという性格を受け継いでいる。神ヤーウェが特定の時・場所において歴史に介入し、ユダヤ民族に教えや奇跡をもって真理を示したと信じ、モーセや預言者が神の言葉として伝えたものを教義の要素として受け継ぐ。そのうえで、ナザレのイエスを神が遣わした救世主とし、イエスの言葉を神の言葉として信じる。イエスによる啓示を以って、神の啓示の完成とする。それゆえ、キリスト教は、神のユダヤ民族への啓示と、イエスによる人類への啓示をともに信じる啓示宗教である。
●啓典宗教
キリスト教は、啓典宗教である。そのことをユダヤ教から受け継いでいる。神の言葉を記したとされる啓典を持つ。単に聖典ではなく、啓典と書くのは、神の啓示を記録したものと信じられているからである。
ユダヤ教との違いは、イエスの言行を記録した福音書及び彼の弟子たちの言行を記録した諸書等をも啓典とすることである。
●契約宗教
キリスト教は、契約宗教である。そのことをユダヤ教から受け継いでいる。契約とは、神と人との契約である。
ユダヤ民族の祖先アブラハムが神ヤーウェと契約を結び、神からカナンの地を与えるという約束を受けたとする。これをアブラハム契約という。
また、ユダヤ民族の指導者モーセは、シナイ山において神と契約を結んだ。これをシナイ契約という。この契約によって、アブラハム=モーセの神はイスラエル人の唯一の神とされ、後世のユダヤ民族は神ヤーウェに選ばれた唯一の民族と信じられた。
また、古代の王ソロモンは、エルサレムのシオンの丘に神殿を建立した。神ヤーウェはダビデ家をイスラエルの支配者として選び、シオンを神を祀る唯一の場所に定める約束をしたと理解された。これをダビデ契約という。
これら神との三つの契約――アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約――が、ユダヤ教の信仰の核になっている。
神ヤーウェとユダヤ民族の契約は、神からの一方的なものである。人間は神との契約を拒否することはできない。神と人間の関係は、主と僕の関係であり、対等の関係ではない。こうした契約を上下契約という。契約の相手は絶対神であり、契約は絶対神の命令(commandment)である。
ユダヤ教は、神との契約に基づく律法主義の宗教である。律法を守る以外に罪からの救いはない。だが、キリスト教徒は律法を守れなくても、罪からの救いがあると考えた。それは、神が独り子イエスを遣わし、イエスが人類のためにみずからの身を十字架にかけて死んだことで、人類の罪が購われたからだとする。キリスト教徒は、神はモーセを通してイスラエルの民と契約を結ばれたが、その契約をイスラエルの民が守らなかったので、キリストを通して新しい契約を全人類との間に結ばれたと考える。「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」(『ヘブライ人への手紙』9章15節)。また、その根拠として、旧約聖書の『エレミヤ書』の「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」(エレミヤ書31章31節)という記述を挙げる。そして、キリスト教ではユダヤ教の律法を神との古い契約とし、イエスの贖罪を新しい契約と考える。それゆえ、キリスト教は契約宗教だが、ユダヤ教の契約を旧約とし、イエスによる契約を新約とする点が、ユダヤ教と異なる。キリスト教は、これら旧約・新約の両方を信じる契約宗教である。
ユダヤ教では、人と人との間の契約も、神の前に誓い、これを証人とすることで有効とされる。キリスト教は、この慣習を受け継いだ。近代西欧の契約観念は、ユダヤ教を根底に持つキリスト教に根差すものである。
私の理解するところでは、イエス・キリストは神ではなく一人の優れた霊覚者である。神の本源が地球に接近しつつあることを優れた霊覚で感知し、自分が感得したことを民衆に伝えた。ところが、イエスの弟子や信徒はイエスを神の子であり、子である神だととらえ、イエスの言葉を神の言葉と理解した。実際には、真の神は、ユダヤ民族に対してもイエスに対しても、啓示をしてはいない。ユダヤ教の預言者もイエスも、真の神の言葉を伝えていない。彼らが伝えたのは、神の言葉そのものではない。イエス以前の預言者も、イエスも各々、霊覚によってとらえたことを、自分の言葉・表現で勝ったに過ぎない。
●来世志向的かつ将来志向的宗教
キリスト教は、現世的欲望を否定し、来世の天国に入ることを目的とする教えである。現世救済より死後救済に重点を置く来世志向的な宗教である。ユダヤ教は、現世志向が強く、来世についてあまり具体的に説いていない。これに比べ、キリスト教では、人間は死後、神の裁きを受けて、魂はただちに天国へ行くか、地獄へ行くとする。魂が来世に行くのに対し、肉体は墓の中で腐敗する。しかし、この死は一時的な状態だとされる。人間はいつか、神の恵みによって、再び肉体を与えられて復活する。それは、深い眠りからの目覚めのようなものと考えられている。
そして、ユダヤ教と同じく、最後の審判が行われ、救いを得られた者は永遠の生命を得る、得られなかった者は永遠の死に置かれると説く。その点では、将来志向的な宗教である。ただし、最後の審判の後に実現される「神の国」は地上に建設さるものとされており、最終的に目指すべき場所は、死後の霊界の天国ではなく、将来の地上の天国である。
●終末論的宗教
キリスト教は、一回限りの歴史の直線的な進行を前提とし、その歴史の終わりの到来を説く終末論的宗教である。終末論とは、世界の滅亡・消滅を説くものではない。メシアの到来によって、最後の審判が行われ、新しい世界が始まることを説くものである。キリスト教は、この点をユダヤ教から継承している。違うのは、イエスをメシアと信じ、人間が最終的に救済されるか否かは、再臨したイエス・キリストが行う最後の審判によって決定されると考えるところである。
●個人救済の宗教
キリスト教のもとになったユダヤ教は、集団救済の宗教である。神が奇跡を起こして救うのは、ユダヤ民族という集団である。集団を救うことによって、その集団を構成する個人をも救う。集団から切り離された個人の救済は、目的としていない。ユダヤ教徒は、神が自ら選んだ民族のみを救済すると信じる。言い換えれば、自らを選民と信じる民族が神に集団救済を求める宗教が、ユダヤ教である。こうした観念を否定して、信奉する個人を直接対象にして救うという考え方は、ユダヤ教では成り立たない。
これに対し、キリスト教は、個人救済の宗教であり、個人の救済を通じて集団を救う宗教である。キリスト教は、ユダヤ民族であるかないかに関わらず、イエスの教えを信じる者は救われると説く。また個人の救済を通じて救われる集団は、ユダヤ民族ではなく、イエスを信じる信徒の集団である。それゆえ、キリスト教は、ユダヤ教を脱民族化し、またそれによって個人に志向した宗教である。
次回に続く。
キリスト教は、啓示宗教である。人間の理性・感情・宗教性に基づく自然宗教に対し、啓示宗教とは、神の啓示に基づく宗教である。啓示とは神が人間に表し示すことである
キリスト教は、ユダヤ教から啓示宗教であるという性格を受け継いでいる。神ヤーウェが特定の時・場所において歴史に介入し、ユダヤ民族に教えや奇跡をもって真理を示したと信じ、モーセや預言者が神の言葉として伝えたものを教義の要素として受け継ぐ。そのうえで、ナザレのイエスを神が遣わした救世主とし、イエスの言葉を神の言葉として信じる。イエスによる啓示を以って、神の啓示の完成とする。それゆえ、キリスト教は、神のユダヤ民族への啓示と、イエスによる人類への啓示をともに信じる啓示宗教である。
●啓典宗教
キリスト教は、啓典宗教である。そのことをユダヤ教から受け継いでいる。神の言葉を記したとされる啓典を持つ。単に聖典ではなく、啓典と書くのは、神の啓示を記録したものと信じられているからである。
ユダヤ教との違いは、イエスの言行を記録した福音書及び彼の弟子たちの言行を記録した諸書等をも啓典とすることである。
●契約宗教
キリスト教は、契約宗教である。そのことをユダヤ教から受け継いでいる。契約とは、神と人との契約である。
ユダヤ民族の祖先アブラハムが神ヤーウェと契約を結び、神からカナンの地を与えるという約束を受けたとする。これをアブラハム契約という。
また、ユダヤ民族の指導者モーセは、シナイ山において神と契約を結んだ。これをシナイ契約という。この契約によって、アブラハム=モーセの神はイスラエル人の唯一の神とされ、後世のユダヤ民族は神ヤーウェに選ばれた唯一の民族と信じられた。
また、古代の王ソロモンは、エルサレムのシオンの丘に神殿を建立した。神ヤーウェはダビデ家をイスラエルの支配者として選び、シオンを神を祀る唯一の場所に定める約束をしたと理解された。これをダビデ契約という。
これら神との三つの契約――アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約――が、ユダヤ教の信仰の核になっている。
神ヤーウェとユダヤ民族の契約は、神からの一方的なものである。人間は神との契約を拒否することはできない。神と人間の関係は、主と僕の関係であり、対等の関係ではない。こうした契約を上下契約という。契約の相手は絶対神であり、契約は絶対神の命令(commandment)である。
ユダヤ教は、神との契約に基づく律法主義の宗教である。律法を守る以外に罪からの救いはない。だが、キリスト教徒は律法を守れなくても、罪からの救いがあると考えた。それは、神が独り子イエスを遣わし、イエスが人類のためにみずからの身を十字架にかけて死んだことで、人類の罪が購われたからだとする。キリスト教徒は、神はモーセを通してイスラエルの民と契約を結ばれたが、その契約をイスラエルの民が守らなかったので、キリストを通して新しい契約を全人類との間に結ばれたと考える。「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」(『ヘブライ人への手紙』9章15節)。また、その根拠として、旧約聖書の『エレミヤ書』の「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」(エレミヤ書31章31節)という記述を挙げる。そして、キリスト教ではユダヤ教の律法を神との古い契約とし、イエスの贖罪を新しい契約と考える。それゆえ、キリスト教は契約宗教だが、ユダヤ教の契約を旧約とし、イエスによる契約を新約とする点が、ユダヤ教と異なる。キリスト教は、これら旧約・新約の両方を信じる契約宗教である。
ユダヤ教では、人と人との間の契約も、神の前に誓い、これを証人とすることで有効とされる。キリスト教は、この慣習を受け継いだ。近代西欧の契約観念は、ユダヤ教を根底に持つキリスト教に根差すものである。
私の理解するところでは、イエス・キリストは神ではなく一人の優れた霊覚者である。神の本源が地球に接近しつつあることを優れた霊覚で感知し、自分が感得したことを民衆に伝えた。ところが、イエスの弟子や信徒はイエスを神の子であり、子である神だととらえ、イエスの言葉を神の言葉と理解した。実際には、真の神は、ユダヤ民族に対してもイエスに対しても、啓示をしてはいない。ユダヤ教の預言者もイエスも、真の神の言葉を伝えていない。彼らが伝えたのは、神の言葉そのものではない。イエス以前の預言者も、イエスも各々、霊覚によってとらえたことを、自分の言葉・表現で勝ったに過ぎない。
●来世志向的かつ将来志向的宗教
キリスト教は、現世的欲望を否定し、来世の天国に入ることを目的とする教えである。現世救済より死後救済に重点を置く来世志向的な宗教である。ユダヤ教は、現世志向が強く、来世についてあまり具体的に説いていない。これに比べ、キリスト教では、人間は死後、神の裁きを受けて、魂はただちに天国へ行くか、地獄へ行くとする。魂が来世に行くのに対し、肉体は墓の中で腐敗する。しかし、この死は一時的な状態だとされる。人間はいつか、神の恵みによって、再び肉体を与えられて復活する。それは、深い眠りからの目覚めのようなものと考えられている。
そして、ユダヤ教と同じく、最後の審判が行われ、救いを得られた者は永遠の生命を得る、得られなかった者は永遠の死に置かれると説く。その点では、将来志向的な宗教である。ただし、最後の審判の後に実現される「神の国」は地上に建設さるものとされており、最終的に目指すべき場所は、死後の霊界の天国ではなく、将来の地上の天国である。
●終末論的宗教
キリスト教は、一回限りの歴史の直線的な進行を前提とし、その歴史の終わりの到来を説く終末論的宗教である。終末論とは、世界の滅亡・消滅を説くものではない。メシアの到来によって、最後の審判が行われ、新しい世界が始まることを説くものである。キリスト教は、この点をユダヤ教から継承している。違うのは、イエスをメシアと信じ、人間が最終的に救済されるか否かは、再臨したイエス・キリストが行う最後の審判によって決定されると考えるところである。
●個人救済の宗教
キリスト教のもとになったユダヤ教は、集団救済の宗教である。神が奇跡を起こして救うのは、ユダヤ民族という集団である。集団を救うことによって、その集団を構成する個人をも救う。集団から切り離された個人の救済は、目的としていない。ユダヤ教徒は、神が自ら選んだ民族のみを救済すると信じる。言い換えれば、自らを選民と信じる民族が神に集団救済を求める宗教が、ユダヤ教である。こうした観念を否定して、信奉する個人を直接対象にして救うという考え方は、ユダヤ教では成り立たない。
これに対し、キリスト教は、個人救済の宗教であり、個人の救済を通じて集団を救う宗教である。キリスト教は、ユダヤ民族であるかないかに関わらず、イエスの教えを信じる者は救われると説く。また個人の救済を通じて救われる集団は、ユダヤ民族ではなく、イエスを信じる信徒の集団である。それゆえ、キリスト教は、ユダヤ教を脱民族化し、またそれによって個人に志向した宗教である。
次回に続く。
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