ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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仏教137~石原莞爾と宮沢賢治

2021-04-11 08:44:55 | 心と宗教
・石原莞爾
 陸軍軍人・石原莞爾は、関東軍参謀として満州事変と満州国建設を指揮したことで知られる。1889年(明治22年)の生まれで、陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業して職業軍人となった。その後、田中智学の思想に惹かれて、1920年(大正9年)、31歳の時、国柱会に入り、日蓮主義の法華経信者となった。田中の教えにより、日本をアジア、さらには世界の盟主とするという使命観を持った。田中の思想を実現する能力を持った軍人・石原が現れたわけである。
 石原は、その後、ドイツに留学し、ルーデンドルフの総力戦論を学び、航空機の発達を見て、大いに触発された。この在独時代に田中智学の息子・里見岸雄をベルリンに迎えて、親交を深めた。里見は、田中が創唱した日本国体学を継承・発展させた法学者で、大東亜戦争の敗戦後は国体護持運動を推進した。
 石原は帰国後、関東軍参謀となり、作戦計画の立案に当たった。日蓮と法華経への信仰と欧州戦史の研究に基づいて、将来の世界戦争の形態を予測し、1928年(昭和3年)に『戦争史大観』を著した。また、世界最終戦争に備えるための第1段階として満蒙領有論を唱えた。1931年(昭和6年)、関東軍作戦主任参謀の役職にあった石原は、持論の実現のため、板垣征四郎とともに満州事変を計画・実行した。次いで、満州国の建国、国際連盟からの脱退を推進した。また、帝国軍需工業拡充計画等の総力戦体制構想を立案し、その実現に力を注いだ。
 1937年(昭和12年)のシナ事変勃発時、参謀本部作戦部長だった石原は、シナでの戦線拡大に反対した。世界最終戦争論に基づく当面の対ソ戦準備のためである。だが、意見の対立する東条英機によって、関東軍参謀副長に左遷された。その結果、総力戦体制構想は頓挫した。
 1939年(昭和14年)、石原は、日本・満州・シナによる東亜連盟の結成を目指し、覇道主義ではなく王道主義を指導原理とした国防の共同、経済の一体化、政治の独立、文化の交流を掲げて、東亜連盟協会を創設し、その指導者として活動した。1940年(昭和15年)には、それまでの最終戦争論を拡充して、『世界最終戦論』を刊行した。石原は、戦争史の研究によって、戦闘隊形が点から線、さらに面、次に体になること、また、二つの勢力の全面戦争の方向に向かっていること、東洋代表の日本と西洋代表の米国との間で世界最終戦が行われることを予想した。こうした発想には「日蓮上人によって示された世界統一のための大戦争」が重要な因子になったことを、石原は明かしている。
 石原の影響力は大きかった。東亜連盟協会は、会員10万人という一大団体となった。だが、石原を目の敵にする東条英機から解散を強要され、改組を余儀なくされた。石原は東条による言論弾圧を恐れず、東条批判を行ったため、現役を追われ、中将で予備役となった。
 大東亜戦争の敗戦後、石原は、東京裁判で起訴されれば、史実に基づいて米英等の欺瞞を明らかにするつもりでいたが、戦勝国は石原に発言の機会を与えなかった。
 1949年(昭和24年)、石原は61歳で死去した。

・宮沢賢治
 詩人、童話作家の宮沢賢治は、1896年(明治29年)、岩手県花巻の生まれで、父祖伝来の浄土真宗の篤い信仰の中で育った。中学卒業の年、島地大等(しまじたいとう)の編著『漢和対照妙法蓮華経』を読んで感動した。島地大等は、島地黙雷の養嗣子(家督相続人)で、黙雷亡き後、盛岡の願教寺住職となった。賢治はこの寺で大等の法話を聴いたのだが、真宗の信仰より法華経の信仰へ傾いた。
 賢治は、東京を訪れた23歳の時、田中智学の講演を聴いた。彼の『本化攝折論』を読み、重要な個所を書き抜いた。日蓮への関心を強め、『日蓮聖人御遺文』を熟読し、要所を書き写した。翌年、自ら求めて国柱会に入会した。その翌年、父に無断で上京し、国柱会の布教活動に参加し、夜は童話を書く生活を送った。しかし、妹の病気の報を受けて帰郷し、農学校の教諭となった。教師生活の間、賢治は「法華文学の創作」を目指す決意をした。以後、彼の文学活動は、すべて法華経信仰に基づくものとなった。28歳の時、童話集『注文の多い料理店』と詩集『春と修羅』を自費出版した。
 農学校は4年間で退職し、農地を開墾して、独居自炊の生活を始めた。青年たちを集めて農業指導と文化活動をしたが、官憲に怪しまれ、自身の病気もあって、それは挫折に終わった。一方、創作活動は、ますます盛んに行った。法華経の信仰、仏教的な宇宙観、科学的な知識に裏付けられ、また農民への深い愛情、自由な想像力、人間味のあふれるユーモアに満ちた作品を書いた。童話『風の又三郎」『銀河鉄道の夜』、詩『雨ニモマケズ』等の名作がある。
 賢治は、病弱だった。そのため、1933年(昭和8年)、38歳で亡くなった。
 遺言は、「国訳の法華経を千部印刷して知己友人に分けて下さい。お経のうしろに、次の言葉を書いて下さい」。「私の全生涯の仕事は此経をあなたの御手許に届け、そして其中にある仏意に触れてあなたが無上道に入られんことをお願ひする外ありません。昭和八年九月二十一日、臨終の日に於て」というものだった。
 田中智学の「四海一天皆帰妙法」は、世界中が法華経に帰依した時に理想世界が実現するという意味の言葉である。賢治は、智学の思想に傾倒し、世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ないと信じた。ただし、政治的な変革に走るのではなく、法華経に基づく文芸活動を通じて、その理想の普及に努めたのである。
 田中の感化を受けた者のうち、石原・宮沢と違って国柱会員にはならなかった井上日召、牧口常三郎については、後にそれぞれの項目に書く。

 次回に続く。

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