ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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ユダヤ71~ロシア革命にユダヤ人多数が参加

2017-07-05 10:28:20 | ユダヤ的価値観
●ロシア革命にユダヤ人多数が参加
 
 第1次世界大戦の末期、1917年10月、ロシアで共産主義革命が起った。
 マルクスの予想に反して、最初の共産主義革命は、西欧先進国ではなく後進的なロシアで起こった。
 マルクスは、資本主義が発達することによって、労働者が絶対的に窮乏化するという説を説いた。しかし、実際は、近代世界システムの中核部にあるイギリスでは、周辺部からの収奪に基づいて資本主義が発達し、労働者大衆の所得が増加し、生活水準が向上した。マルクス=エンゲルスは、この傾向を追認するようになった。絶対的窮乏化説は、間違っていたわけである。富の増大とともにイギリスでは、資本主義の矛盾を是正しようとする政策が行われた。市場にすべての決定を任せる自由主義を修正した修正自由主義や、キリスト教的な慈善運動に基づく社会改良主義の政策である。そうした政策によって、イギリスの労働者大衆の生活は豊かになり、政治的社会的な権利も拡大した。
 こうして共産主義による革命より、漸進的な社会改良という方法が、西欧の資本主義諸国では主流となっていった。資本主義の矛盾は、闘争と革命という急進的な方法ではなく、融和と改良という漸進的な方法によっても改善することが可能である。そして、歴史が示しているのは、急進的な方法は、かえって矛盾を拡大し、目的と結果に巨大な乖離を生み出すということである。
 マルクスは、周期的に訪れる恐慌とそれによる革命という展開を予想した。恐慌はほぼ10年に1度発生していたが、19世紀末期には周期性を失った。また実際に革命が起こったのは、マルクスが理論的に予想した先進国ではなく、後進国のロシアだった。革命のきっかけは恐慌ではなく、戦争とその結果の敗戦だった。
 1917年2月、食糧暴動が起こり、窮状に耐えかねた労働者が首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)でゼネストを敢行した。兵士たちもこのゼネストを支持した。国会では、中道派の立憲民主党を中心とした臨時政府が樹立され、事態を収拾できなくなったニコライ2世は退位した。この2月革命により300年余りに及ぶロマノフ朝は終わりをつげた。
 無政府主義者、社会主義者の活動が活発になった。その中で、ロシア社会民主労働党は、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党(エスエル)と共に積極的な活動を展開した。
 社会民主労働党は、ウラディミール・レーニンが指導するボルシェヴィキ(多数派)と、ゲオルギー・プレハーノフらのメンシェヴィキ(少数派)に分裂していた。ボルシェヴィキは、フランス市民革命のジャコバン主義とブランキの戦術を継承し、前衛党が暴力で権力を取る方法を追求した。これに対し、メンシェヴィキは、西欧型の大衆政党を目指していた。
 2月革命後、各地で労働者・兵士の代表によって構成されるソヴィエト(労兵評議会)が設置され、臨時政府とソヴィエトが対立する二重権力状態が生まれた。社会革命党のアレクサンドル・ケレンスキーが指揮する臨時政府は、対独戦を継続する方針だったが、戦局は好転せず、民衆の支持は低下した。4月、亡命先のスイスからレーニンが帰国した。レーニンは封印列車に乗ってドイツを通過して来た。
 「平和とパンの要求」(四月テーゼ)を掲げたレーニンは、「すべての権力をソヴィエトへ」と訴えて、臨時政府との対決姿勢を明らかにした。各地のソヴィエトで、権力奪取のために戦争反対策を取るボルシェヴィキが伸張した。
 レーニンは、暴力革命を指導した。17年10月、労働者・兵士がペトログラードで蜂起して臨時政府を倒し、ボルシェヴィキと社会革命党左派からなる革命政権が樹立された。蜂起の軍事面は、メンシェヴィキから合流したレオン・トロツキーが指揮した。これが10月革命と呼ばれる。
 レーニンを最高指導者とする新政府は、即時停戦と無併合・無賠償による和平、地主の土地の没収、少数民族の自決権の承認等を宣言した。新政府は憲法制定議会の選挙を実施した。選挙の結果、農民を支持基盤とする社会革命党が第一党になった。
 ところが、レーニンは選挙の結果を踏みにじった。18年1月レーニンは武力で議会を解散し、社会革命党を政権から追放して、ボルシェヴィキによる一党独裁体制を敷いた。少数派が暴力で権力を強奪したのである。
 議会制デモクラシーとは、自由で公正な選挙によって選ばれた議員によって政治が行われることである。ところが、ロシアで起こったのは、デモクラシーを否定し、武力で政権を奪うクーデタだった。
 ボルシェヴィキは18年に共産党と改称する。ソ連共産党は、ロシア革命の過程をすべて正当化し、権力の正統性を偽装した。しかし、共産党による一党独裁は、プロレタリア独裁を騙った官僚専制であり、共産主義者が労働者・農民を支配する体制だった。
 レーニンは1919年に、第1次大戦で各国の社会主義政党が自国の戦争を支持するに至って崩壊した第2インターナショナルに替わって、第3インターナショナルを作り、ソ連共産党が中心となって、官僚独裁型の共産主義を各国に広める革命運動を進めていった。

●トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフら枚挙にいとまなし

 ロシアの社会主義運動の中心部にいたのは、ユダヤ人だった。19世紀末ロマノフ朝圧制下のロシアで、ユダヤ人はポグロムと呼ばれる虐待・虐殺を受けた。多数のユダヤ人が出国してアメリカ等に移民した。ユダヤ人に対する迫害を阻止するには、ロマノフ王朝を打倒しなければならないとする急進的な革命思想が広がった。将来のパレスチナへの移住よりも、現在の体制からの解放が追求された。そのため、多くのユダヤ人が革命運動に参加するようになった。シオニズムより共産主義という選択である。
 19世紀末から20世紀初めのイギリスの論壇で活躍したヒレア・ベロックは、作家、歴史家、社会評論家として知られる。ベロックは、1922年に出版した『ユダヤ人』で、ロシア革命を「ユダヤ革命(the Jewish revolution)」と表現した。ボルシェヴィキの幹部には、ユダヤ人が多かった。 
 レーニン(本名ウリヤーノフ)自身はユダヤ人ではなかったが、母方の祖母がユダヤ人だった。4分の1がユダヤ人というクォーターである。妻のクループスカヤは純粋なユダヤ人だった。それゆえ、レーニンはユダヤ人の民族集団に近く、ユダヤ人と非ユダヤ人を結合するのに適した背景を持っていたと言えよう。
 ロシア革命で最も象徴的なユダヤ人は、10月革命を軍事的に成功させたトロツキー(本名ブロンシュタイン)である。またそれ以外に、ジノヴィエフ、カーメネフ、ウリツキー、ラディックが有名であり、他にスベルドルフ、リトヴィーノフ、メシュコフスキー、ステクロフ、マルトフ、ダーセフ、スハノフ、ラジェヌキイ、ボグダノフ、ゴーレフらが挙げられる。ブハーリンについては、ユダヤ系だという説とそうではないという説がある。
 ボルシェヴィキの幹部だけでなく一般党員においても、ユダヤ人は目立つ存在だった。党大会の代議員の15%から20%がユダヤ人だったといわれる。1920年の時点で、ソ連政府の各委員会は委員の約8割がユダヤ人だったという説もある。
 ボルシェヴィキが政権を奪取すると、これを撃破しようとする白ロシア軍は、ボルシェヴィキだけでなく、全ユダヤ人を敵として取り扱った。ウクライナの内戦は、ユダヤ人の歴史で最も大規模なポグロムに発展し、6~7万人のユダヤ人が殺害された。東欧でもボルシェヴィキとユダヤ人は同一視され、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア等でユダヤ人迫害が行われた。
 しかし、ロシアのユダヤ人が全員、共産主義者なのではなく、ボルシェヴィキに参加したユダヤ人は、脱ユダヤ教的なユダヤ人だった。ボルシェヴィキは、帝政ロシアで、ユダヤ教徒の目標と利益に積極的に敵対する唯一の政党だった。
 最高指導者のレーニンは、ユダヤ民族主義・シオニズムを批判し、プロレタリア国際主義を推進した。レーニンは、「ユダヤ人の民族性という概念は、ユダヤ人プロレタリアートの利益に反する」「ユダヤ人の民族的文化というスローガンを提唱する者は、プロレタリアートの敵、ユダヤ人の古いカースト的地位の支持者、ラビとブルジョワジーの共犯者である」と批判した。それゆえ、レーニンはユダヤ人のみの利益のために革命を起こしたのではない。あくまでプロレアリア国際主義の原則のもとに革命を起こした。
 実際、一般のユダヤ人は、ボルシェヴィキのユダヤ人によって苦しめられた。彼らは革命によって被害を蒙った。ケレンスキー臨時政府は、ユダヤ人に完全な投票権と市民権を与えた。その政権が続けば、ユダヤ人は多くのものを獲得できただろう。だが、ユダヤ人にとって、デモクラシーを否定し、武力で政権を奪うボルシェヴィキのクーデタは、時計の針の逆回転となった。ユダヤ人の多数が粛清され、生き延びた人のうち約30万人は国境を越えて亡命した。
 1919年8月にユダヤ人の宗教的共同体は解散させられた。それらが持つ財産は没収され、大多数のシナゴーグは閉鎖された。脱ユダヤ教的なユダヤ人は、ユダヤ文化の特異性のすべての徴候を撲滅しようとした。ロシアにおけるシオニズムの根絶を図り、1920年以降ロシア人シオニストが何千人も強制収容所に送られた。彼らのほとんどは、出所できなかった。ユダヤ人共産主義者が、ユダヤ人によるシオニズムを弾圧したのである。

 次回に続く。

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