ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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キリスト教118~フロンティア・スピリットと「明白な使命」

2018-11-10 08:49:14 | 心と宗教
●フロンティア・スピリットと「明白な使命」

 アメリカの白人たちは、ピルグリム・ファーザーズ以来、フロンティア・スピリットすなわち開拓者精神を持ち続けた。フロンティア・スピリットは、未開拓地を開拓する進取・積極・実力重視などを特性とする。その開拓者精神は、キリスト教の信仰に基づくものだった。
 新大陸に移住した始祖たちは、アメリカの地を新しいエルサレムとみなし、古代ユダヤ人にならって自らを神から選ばれた者と考えた。彼ら白人キリスト教徒は、自分たちの信念を広めることを神から与えられた使命だと感じた。これを「明白な使命(マニフェスト・デスティニー)」という。
 「明白な使命」は、ユダヤ=キリスト教的な観念である。この使命感のもと、白人種は先住の異教徒であるインディアンを徹底的に虐殺した。インディアンに対する姿勢は、15世紀末から中南米のインディオを虐待・殺戮した白人カトリック教徒の姿勢に通じている。北米の白人キリスト教徒は、宗教的な使命感を持って、先住民を駆逐し、彼らの土地を奪い、それを開拓していった。
 アメリカ合衆国は、イギリスから独立後、1803年にフランスからルイジアナを購入した。これを皮切りに、アメリカ=メキシコ戦争でカリフォリニアを獲得するなどして、領土を拡大していった。
 ナポレオン戦争においてイギリスは、ナポレオンの大陸封鎖令に対抗して海上封鎖を行った。建国以来欧州の問題に介入しない不干渉政策を取っていた合衆国もこれには反発し、12年米英戦争が勃発した。 14年に講和が結ばれたものの合衆国は苦戦した。イギリスとの戦争は、合衆国にとって経済的に自立する機会となった。戦争で貿易が一時中断したことにより、国内工業が保護された。特に北部諸州では綿工業等が発展した。そのことにより、米英戦争は、第2次独立戦争とも呼ばれる。
 北米は、植民地時代から、地域によって産業構造に違いがあった。独立後、北部諸州では商工業が発達した。南部諸州は、綿花やタバコを栽培するプランテーションを営み、黒人奴隷を労働力に用いていた。北部はイギリスの工業に対抗するため、保護関税政策を求め、自由労働を重んじて奴隷制度に反対した。一方、南部は、イギリスの綿工業の発達により綿花の輸出が激増し、自由貿易政策を主張していた。
 このように内部に大きな利害の相違をはらみつつ、連邦国家アメリカは、西部の開拓を続けた。1846年から、太平洋岸側の広大な地域を次々に併合・割譲・買収し、1853年には大陸領土が確定した。先住民を駆逐し、領土を拡張することは、「明白な使命」として正当化された。

●奴隷制をめぐる南北戦争
 
 領土が広がるにつれ、地域間に存在する利害の対立は、激しさを増した。最大の係争点は、奴隷制だった。
 欧米では、16世紀から黒人奴隷貿易が盛んに行われ、約1000万人に上る黒人が、アフリカからアメリカ大陸に送られた。19世紀に奴隷廃止運動が起こり、1833年にイギリス、48年にフランスで奴隷労働が廃止された。1860年の英仏通称条約で奴隷貿易が禁止され、実効性を持たせるため、海上での臨検の権利を定め、奴隷貿易を海賊行為とした。こうしたヨーロッパの動向がアメリカ合衆国に影響を与えた。
 アメリカでは西部開拓が進み、新たな州が誕生すると、新しく出来た州に奴隷制の拡大を認めるか否かで南北の対立が深まった。1860年に奴隷制に反対する共和党のリンカーンが大統領に就任した。これを機に、翌61年南部11州が合衆国からの脱退を宣言し、アメリカ連合国を結成して、北部諸州に対して武力抗争を開始した。北部諸州は分離独立を認めず、ここに南北戦争が始まった。
 最初は南部が優勢だった。しかし、リンカーンは1862年に、国有地に5年間居住・開墾すれば無償で与えるという自営農地法(ホームステッド法)を発布し、これによって、西部農民の支持を獲得した。さらに、63年に奴隷解放宣言を発し、内外世論を味方につけた。ゲティスバーグの戦いで北部が優勢になり、65年北部が南部に勝利した。
 南北戦争後の1865年から70年にかけて、合衆国憲法に修正第13条、14条及び15条が追加された。これらの3カ条は、「南北戦争の結果たる修正」として知られる。第13条は1863年の奴隷解放の布告を憲法上明文化したものであり、本条によって奴隷制度が廃止された。また14条は黒人に市民権を付与するもので、15条は黒人の参政権を保障しようとしたものだった。だが、実質的な差別は存続した。黒人解放運動が成果を上げるようになったのは、1940年以降であり、1964年にようやく公民権法が成立した。権利においては平等が実現した。しかし、現在も米国の大都市では、居住地と学校において、黒人の隔離が続いている。
 なお、合衆国憲法に、「婦人参政権修正」として知られる修正第19条が追加されたのは、1920年だった。黒人に参政権を与える修正条項が追加されたのは、1865年から70年にかけてだった。憲法に婦人参政権を定めたのは、それより約50年後のことだった。

●南北戦争後のアメリカの発展

 アメリカ合衆国は南北戦争の結果、工業国として歩むこととなり、めざましい発展を遂げた。ヨーロッパからの移民によって人口も急増した。1869年には、最初の大陸横断鉄道が開通し、広大な国土に存在する豊富な資源の輸送、工業製品・農業製品の流通、労働者・消費者の移動等が可能になった。
 1870年代に入ると、アメリカでは、不況を乗り切るため、企業の集中が進み、技術革新が行われた。80年代には、鋼鉄が生産され、化学工業が勃興した。90年代には、新エネルギーとして電力が登場し、内燃機関が使用されるようになった。第2次産業革命である。技術体系の変化と産業の巨大化に伴って、新産業分野では膨大な設備投資が必要となった。巨額の資金を調達するため、銀行・証券会社などを通じて市場で投資を募る株式会社が普及した。各国に大企業・財閥が出現し、利潤を求めて競い合った。
 こうして米国は1890年代にはイギリスを抜き、世界最大の工業国となった。近代世界システムの中核部に、アメリカというイギリスに並ぶ有力国家が確立した。
「明白な使命」を抱く白人キリスト教徒たちは、広大な西部の大部分を開拓すると、さらに太平洋に乗り出して、アジア諸国に進出していった。アジア諸国への進出は、ユダヤ=キリスト教的な神の正義を広めることだった。「明白な使命」の対象は、北米大陸からアジア太平洋へと拡大された。
 米国は、1898年の米西戦争でフィリピンやグアムなどを獲得し、さらにハワイを併合して太平洋地域への勢力拡大を本格化させた。フィリピンは、米国の支配下に入る前は、スペインの植民地であり、カトリックが宣教された。そこでアメリカのプロテスタント諸派が伝道した。ハワイは非キリスト教の独自の文化を持っていたが、アメリカに併合されてキリスト教化した。こうした勢いで、アメリカのキリスト教徒は、東アジアにも進出し、アヘン戦争後、欧米列強の半植民地と化したシナ(清)で活発に布教活動を行った。

 次回に続く。

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