ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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ユダヤ57~唯物論的人間観の克服が必要

2017-06-02 09:21:59 | ユダヤ的価値観
●唯物論的人間観の克服が必要

 フロイトは、当初、機械論的な唯物論により、エネルギーをモデルにして、性本能を考えた。ニュートン物理学を理想とし、心の物理学を構想した。その後、フロイトは性エネルギー論を捨て、エスの本能的欲求という生物学的な捉え方に変わった。しかし、人間を物質的なものと見ている点では一貫している。
 晩年のフロイトは、死すべきものとしての人間に、無機物に戻ろうとする傾向として、死の本能(タナトス)を想定した。タナトスは、生の本能(エロス)についての快感原則・現実原則と異なり、涅槃原則に従うとされる。涅槃原則は、ショーペンハウアーを通じて仏教のニルヴァーナの考えを取り入れたものである。ショーペンハウアーは、生きんとする盲目の意志を否定することで、解脱の境地へと達することができると説いたが、それは死後霊魂が存続することを前提していた。しかし、フロイトは身体から独立した霊魂の存在を認めない。だから、仏教のニルヴァーナをそのままに理解したものではない。仏教は霊魂を西洋思想のように、不変不滅の実体ととらえない。死後も存在し、輪廻転生するものととらえる。そして、この宇宙から解脱し、再び輪廻転生しない状態に入ることを、ニルヴァーナという。フロイトは、霊魂自体を認めないから、涅槃原則とは、単なる無機的な物質の法則に過ぎない。
 フロイトの人間観のもとにある唯物論的人間観とは、近代西洋に現れた人間観で、人類はユダヤ=キリスト教的な人格神が創造したものではなく、生物の進化によって誕生した一つの種であり、人間の心理現象は、根本的には物質的な現象であり、人間は死とともに無に返るという考え方である。心理現象の物質的な基盤を、脳と見るか、細胞と見るか、遺伝子と見るか、原子と見るか等の違いがあるが、いずれにしても本質的には物質的な現象と見る。この人間観では、身体から独立して存在する霊魂を認めない。
 フロイトは、こうした唯物論的人間観においてマルクスと結びつき得る。人間を労働する者としてとらえたマルクスに対し、人間を性活動を行う者として、その心理面を研究したのが、フロイトである。
 心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求には、(1)生理的欲求、(2)安全の欲求、(3)所属と愛の欲求、(4)承認の欲求、(5)自己実現の欲求という5段階がある、と説いた。この説によれば、マルクスは「生理的欲求」と「安全の欲求」を中心とし、それらを社会的に平等な状態で達成することを目指した。フロイトは性の問題を通じて、より上位の欲求である「所属と愛の欲求」の研究をした。しかし、性の観点からすべてを理解しようとしたために、人間理解を狭くしてしまった。マルクスとフロイトの統合が生み出すのは、この段階の欲求の追及である。
 フロイトの直弟子にはエーリッヒ・フロム、ウィルヘルム・ライヒなどユダヤ人が多かった。ユダヤ人でないのはカール・グスタフ・ユングくらいだった。フロイトの理論を継承した精神医学者・心理学者にも、ユダヤ人が多い。マルクスの理論を継承・実行したマルクス主義者・共産主義者にユダヤ人が多いのと好対照である。マルクスとフロイトの総合を試みたフランクフルト学派にも、ユダヤ人が多かった。そのことは、後の項目で述べることにする。
 なお、フロイトの甥エドガー・バーネイズは、群衆心理学を活用して、大衆広報の基礎を築き、「広報の父」と呼ばれる。また、第2次大戦後のアメリカでの精神分析ブームの火付け役となった。
 ユダヤ教では、ラビ(律法学者)が人生全般の相談を受ける。ユダヤ教を捨てたユダヤ人は、精神科医にラビに代わる精神的指導者を求めたと考えられる。世俗化の進む欧米社会では、宗教的な指導・支援ではなく医学的な治療が求められ、精神科医が非常に多くなっている。特にプロテスタンティズムには、カトリック教会における神父への告白がないので、それに代わる対象を精神科医に求める傾向がある。精神医学的な指導や治療が、宗教の代用品となっているのである。
 ユダヤ人マルクスとフロイトが生み出した唯物論的な人間観は、その弟子や信奉者たちによって、欧米諸国を中心に、世界的に大きな影響を与えてきた。その弊害は計り知れないほど大きい。
 マルクスとフロイトは、脱ユダヤ教的なユダヤ人だが、ユダヤ教で発達した合理主義を継承している。それが彼らの唯物論的人間観の土台にあるものである。ユダヤ教で発達した合理主義は、西方キリスト教でプロテスタンティズムに影響を与えた後、唯物論的人間観の形成にも影響を与えたのである。
 ユダヤ教には、多くの宗教に見られる死後の世界は存在しない。ユダヤ教は、人間が死んだらどうなるのかということについてほとんど触れていない。死後の世界という考え方がないのである。ユダヤ教では、人は死ねばただ死ぬだけである。死は個人にとって、最終的な終わりだと教える。死後の世界、来世で報われるという考えもない。そこから生じるのは、強い現世志向である。この世での人生を何よりも大切に考えるのが、ユダヤ教徒の生き方である。
 こうした死生観が一方で、現世での物質的・金銭的な富を追い求めるユダヤ人資本家を生み出し、一方で、唯物論的な人間観に基づく共産主義者や精神分析医を生み出したのである。
 唯物論的人間観を克服するためには、人間を単に物質的な存在と見るのではなく、人間には物質的な側面と心霊的な側面の両面があるとする人間観が必要である。その人間観を私は心霊論的人間観と呼んでいる。唯物論的人間観から心霊論的人間観への転換は、ユダヤ的価値観の超克のためにも必須となるものである。心霊論的人間観については、本稿の最後部に書く。

関連掲示
・拙稿「フロイトを超えて~唯物論的人間観から心霊論的人間観へ」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11a.htm